写真は略年代順。漂流漁民の送還など、計画的に開国を強いた諸国は、同時に「治外法権の外国居留地・軍隊・外国人専用公園など」を得えますが、同時に日本庶民がクリーニング業など始めた様子が伺えます。 」
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「幕末の兵学者:佐久間象山の顕彰碑への案内」
安政元年(1853年)徳川家定の時代に、ペリーの黒船来航により、日米和親条約を結び開国した、これに伴い伊豆半島の先端「下田」を開港したが、佐久間象山の献策(下田は占領される懼れ)等により1859年の日米通商修好条約では横浜(神奈川)を開港し下田は閉港した。その為「横浜発展の恩人」と言われる。
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「佐久間象山顕彰碑」
開国100年を記念して建立。事跡として、アヘン戦争での清国の大敗にと同時に、象山が仕える松代藩主真田幸貫が「海防掛」となり、洋兵学=「洋式砲術・洋式造船」の研究を命ぜられた。以降その普及に努めた。門弟として吉田松陰・小林虎三郎・勝海舟・河合継之助・坂本龍馬・橋本左内・加藤弘之などがいる。。
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「日米和親条約締結の地」
1854年(嘉永7年=安政元年)、二度の来航により開国を迫るペリー提督は随員を従えて横浜に上陸した。
横浜応接所で日米和親条約締結のための会談を行った。会談と書面による交渉の結果、漂流民の救助・引き渡し、アメリカに物資(薪水・食料・石炭)を補給するための伊豆下田・函館2港の開港、下田に総領事を置くことなどを取り決め、日米和親条約締結に至りました。鎖国を止めた条約です。ペリーは帰路琉球王国とも「琉米修好条約を締結した。
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「新聞の父・ジョセフ彦邸」
「新聞の父」と言われるジョセフ彦=浜田彦蔵は、兵庫県の少年、1851年・13歳のとき難破し、二ヶ月太平洋を漂流しアメリカ商船に助けられる。本人の才能と周囲の好意で学校教育を受け米国大統領とも面会、米国籍に帰化。安政6年(1859年6月)駐日公使ハリスの領事館通訳として日本赴任(21歳)。
後に、貿易商などとして活躍、文久元年(1964年)英字新聞を翻訳し「新聞誌→海外新聞」を発行した。61歳で逝去、外国人として青山の外国人墓地に眠る。
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「港の見える丘公園」
横浜港を見下ろす高台・要害の地。横浜が開港した際に、イギリスとフランスの軍隊が当地に駐留した。太平洋戦争後も、アメリカ軍など進駐軍がこの地を接収した。接収が解除になってから、横浜市が公園用地として手に入れ整備し、1962年の10月に風致公園として開園、ようやく一般市民が立ち入ることが出来るようになった。
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「宣教医師ヘボン邸の碑」
ヘボン式ローマ字で知られる。英名=James Curtis Hepburn 、北アメリカ長老教会の宣教医として1859年10月に妻クララと共に横浜到着、神奈川医療所を設け、歌舞伎役者三代目沢村田之助の手術など医療活動を行う。一方、日本最初の「和英辞書=和英語林集成」を出版、日本語をアルファベットで表記した。後の「ヘボン式ローマ字」
である。文久3年(1863年)に男女共学のヘボン塾を開設、後の明治学院・フェリス女学院となった。本人が、私の名前は「平文=ヘボン」と言ったという。
明治38年、勲三等旭日章を贈られる。
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「元町公園」
1859年の横浜開港までは半農半漁の村であった元町は、開港に伴い、立ち退いた旧横浜村住民が移住、山下町・山手周辺に外国人居留地が、関内にはその居留者の業務地が設けられた。その山下町や山手と関内を結ぶ場所にあった元町通りは、居留者らが日常的に多く行き交うところとなり、外国人を対象に商売が盛んに行われるようになった。当時は日本には珍しい喫茶店やベーカリー、洋服店などが軒を連ね、文明開化を支えた。
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「山手80番館遺構」
元町公園の中にある、関東大震災前の外人居留地(租界)異人館跡。
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「土木遺産・ブラフ溝」
元町公園に展示されている。石造りの道路側溝。西洋瓦や給水業を行ったフランス人ジェラールの要望で造られたという。
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「復刻・自働電話ボックス」
元町公園で稼動している「自働(にんべん付きの働)電話」ボックス。「自働電話」は「電話回線を持たない一般公衆が利用できる電話」との意味。1990年(明治33年)に上野駅・新橋駅・京橋に設置されたのが最初とのこと。
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「クリーニング業発祥の地」碑
碑文 安政6年(1859年)、神奈川宿の人青木屋忠七氏、現在の5丁目にて始めて、つづいて岡沢真次郎氏、横浜元町に青木屋を開業。この間、フランス人ドンバル氏、斯業の技術指導および普及発展に貢献された。この業祖の偉業顕彰し、ここにクリーニング業発祥の地記念碑を建立する。
昭和48年11月吉日
「因みにその頃、24歳の福澤諭吉が横浜村の見物に出かけたが、従来のオランダ語が全く通じず看板の文字さえ読めないことに衝撃を受け、独学で英語の学習を始め、同年冬からの咸臨丸での訪米に参加したという。」
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「横浜天主堂跡」碑
万延元年(1860年)にパリ外国宣教会から来日したジラ-ル(Girard)神父が、横浜に聖堂建設用地の借地権を取得しました。聖堂は文久元年(1861年)に完成しました。
その後移転し、震災後再建されたのが、現在のカトリック山手教会です。昭和37年(1962)、天主堂創建100年記念してこの地に碑が建てられました
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「日本写真の開祖」
万延3年(1862年)初の日本人写真師とされる下岡蓮杖は、横浜に写真館を開業しました。彼は1823年(文政6年)伊豆下田生まれ。当初は絵師を志して江戸に出てきましたが、そこで外国から入ってきたばかりの写真というものを見て興味を持ち、写真術の習得を目指します。やがて、苦労の末に馬車道太田町角に店を構え、店舗は次第に栄えていきました。
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「山手公園(日本初の西洋式庭園・テニス発祥の地」
慶応三年(1866年)に横浜居住の外国人の間には山手方面に専用の遊園地を望む声があり、外国公使団との間で結ばれた「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」(慶応約書)によって、その要求が幕府に認められました。しかし、この中の公園計画は具体化しないで終わりました。明治2年(1869)に居留民代表から改めて要求が出されたのに対して、日本政府は山手妙光寺付近の土地、約6千坪を、慶応約書で約束した土地の代替地として貸与しました。公園の造成は居留民が行い、明治3年5月6日(1870年6月4日)に開園したのが山手公園です。 明治11年(1878年)からは居留外国人女性で組織される横浜レディ-ス.ロ-ン.アンド.テニス.アンド.クロッケ-.クラブ(横浜婦女弄麹社)が管理することになり、クラブハウスとコ-トがここに設けられました。
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「テニス発祥の地」
1944年(昭和19年)に山手公園は横浜市に管理が移り、1998年(平成10年)にテニスの発祥の地とされ、テニス発祥記念館を設けました。現在のテニスが生まれたのは、1865年に英国の陸軍であったブラウント大尉を代表として設立された「ラケット・コート・クラブ」です。この頃のゲームは2人がラケットを持ち、壁にボールを打ち合うものでした。これが現在のテニスの形となるものです。
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「電信創業の地」 碑
明治2年(1869年)9月19日(太陽暦10月23日)横浜裁判所と東京築地運上所に 設けられた「傳信機役所」を結ぶ 約32キロメートルの電信線架設工事が開始され、 同12月25日に業務を開始しました。これが、我が国における公衆電気通信の最初であります。
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「電信創業の地;説明」
~電信創業の地~
明治2年(1869年)、この場所にあった横浜 電信局と東京電信局の間に、わが国ではじめて電報の
取り扱いが行われました。 昭和38年12月25日 日本電信電話公社
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「日本ガス事業発祥の地」
明治3年(1870年)高島嘉右衛門が、県庁からガス灯の建設を頼まれ「日本社中」を結成し、上海でガス灯建設を行っていたフランス人技師アンリ・プレグランを招いた。1972年(明治5年)9月に神奈川県庁と馬車道付近に十数基が点灯した。
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「記念碑」
この記念碑は「日本社中」のあった現在の本町小学校に「日本最初のガス会社跡」として残っています。
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「ガス灯発祥の地」 碑
1870(明治3)年9月に、実験的に海岸通りに点火された石油灯が、日本で初めての街灯で、その2年後1872年(明治5)年9月に大江橋~馬車道、本町通りにかけて日本最初のガス灯が灯りました。
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「ガス灯発祥の地説明」
安政6年(1859年)に開港場となって以来、横浜は西洋文化の玄関口となりました。馬車道を起点にして全国に拡がったものも数多くあります。 ガス灯は、明治5年(1872年)に、高島嘉右衛門の「日本ガス社中」により、馬車道・本町通り等に設置、点灯され、これが日本における最初のガス灯となりました。柱部 は英国グラスゴー市から輸入し、灯具は日本人職人により製造されたと言われます。 このたび、横浜市市民文化会館(関内ホール)新築完成を祝って、当時の型をモデルとしたガス灯を復元設置しました。 壁面レリーフは、横浜開港資料館所蔵の絵葉書を転写したもので、明治末期の馬車道です。 昭和61年9月27日 馬車道商店街協同組合
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「エドモンド・モレルの墓」
1870年に来日した、イギリスの鉄道技師、イギリス公使ハリー・パークスの推薦により工部省の招聘を受け、初代鉄道兼電信建築師長に就任した。来日前は、セイロン島(現スリランカ)の鉄道敷設を指揮。
日本の鉄道の将来を考えた技術指導を行ったことから、「日本の鉄道の恩人」と賛えられている。鉄道完成を目前にして結核で早逝。横浜市の外人墓地内にある彼の墓所は、1962年に鉄道記念物に指定された。
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「鉄道発祥の地」記念碑
JR桜木町駅の東南端に、あります。明治5(1872)年に横浜・品川間で営業を開始しました。当時は一日9往復、馬車であれば4時間の道のりを約53分(現在は約30分)で走りました。鉄道のレール・枕木・機関車・客車など全てを輸入したようです。諸外国に追いつくための費用は莫大だったと思われます
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「碑文」
、明治5年(1872年)旧暦5月7日、我が国の鉄道はこの場所にあった横浜ステイシヨンと品川ステイシヨンの間で開通し、その営業を開始しました。わたくしどもは、当時の人の気概と努力をたたえ、このことを後世に伝えるとともに、この伝統が受け継がれて、さらにあすの飛躍をもたらすことを希望するものであります。昭和42年10月14日 鉄道発祥記念碑建設特別委員会
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「近代下水道記念碑」
1864年(元治元年)11月に各国領事と幕府との間で交わされた「横浜居留地覚書」 に基づいて、居留地の下水道整備を進めたのは、明治政府最初のお雇い外国人となった、 英国人ブラントン(Richard Henry Brunton)でした。横浜居留地の下水道整備計画は1869年(明治2年)に着手され、1871年(明治4年) に完成しました。 この下水道は瓦製陶管による下水管を埋設するものでした
旧横浜外国人居留地(関内・山手)では、近代的な下水道が明治10年代までに整備されました。この山手公園沿いの桜道などには当時の石造下水管(内法幅0.6m、高さ約0.8mの房州石造の暗渠約130m)とこの碑の左側にはブラフ溝(石造側溝)が、100年以上経た今日においても使われています。この碑は横浜市の下水管の総延長が、平成7年11月に1万kmに達したことを記念して、この地に建立するものです。
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「近代水道の建設を指導したイギリス人パーマー」
近代水道は、川水などを砂などで「ろ過」して鉄管などで「有圧」で給水するものと言う。
横浜は開港時の100戸の小村から急激な人口増加に見舞われたが、埋立地で良質な井戸が得られず、明治10年にコレラの発生があった。このため神奈川県は、香港の水道など土木事業を指導した英国工兵隊将校パーマーに基本設計を依頼した。パーマは、相模川水系を丹念に実地調査して帰国。
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「近代水道発祥の地」の碑
明治18年(1885年)に再度来日したパーマは、、相模川上流を水源・導水路鉄管で16.7Km・野毛山に貯水池とろ過池をつくり、横浜の町の給水に成功した。
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「日本近代水道最古の水道鉄管」
碑文:明治20年(1887年)に最初の近代水道がイギリス軍人パーマーの指導により誕生しました。相模川と道志川の合流点(現津久井町)に水源を求め、この地に運ばれた水は浄水され市内に給水されました。この野毛坂の地下には、当時のイギリス製水道管が埋設されていて今も働き続けています。当時の水道管を利用して造られたこの記念碑は、パーマーを始め、多くの先人たちの偉業を讃え建立したものです。
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「山手イタリア山庭園(外交官の家)」
1880年(明治13年)から1886年までイタリア領事館が置かれたことから、イタリア山と呼ばれている、横浜市中区の山手地区にある庭園。1993年にはブラフ18番館、1997年には外交官の家が移築された。花壇には、バラの季節には姉妹都市のリヨン市から贈られたプレステージ・ドゥ・リヨンが咲き誇る。
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「カトリック山手教会」
明治39年(1906年)、居留地が過密になり、山手地区の住宅が増えたので、教会も環境のよい山手へ移転、双塔をもつゴシック様式レンガ造りの大聖堂が建てられました、ところがこの壮重な建物は関東大震災により倒壊し、昭和8年(1933年)再建されたのが、現在のカトリック山手教会です。
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