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「回向院」
徳川家綱の時代の明暦の大火(1657年・明暦3年)で、当時の隅田川を渡る橋が無かった為逃げ場を失った江戸市民の焼死者10万人余りが発生。それを葬った万人塚に始まり、諸宗山無縁寺回向院と称するとのこと。天災の横死者・刑死者・無縁仏・動物すべてを供養する。1781年に境内で勧進相撲が興行され今日の両国での大相撲に繋がっている。この大火を契機に、幕府が橋(L=200m W=8m)を架橋、当初は「大橋」と名付けたが、西側の武蔵野国・東側の下総国を結ぶことから「両国橋」と呼ばれることとなった。
赤穂浪士は仇討ち・討入り後、吉良邸近くの回向院にて公儀の沙汰を待つ計画だったが、門を閉ざされ入れず、そのため高輪泉岳寺を目指した。ぶらり両国の説明標示。
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「本所松阪公園(旧吉良上野介邸)」
吉良邸は、松の廊下の刃傷事件(元禄14年=1701年4月)以前は江戸城近くに有ったが、事件後、江戸の外れの本所の当地に屋敷代えとなり、そこで討入り(元禄15年=1703年1月)にあい落命した。現在は一部の敷地が公園として残っている。ぶらり両国の説明標示
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「前原伊助居宅跡」
吉良上野介に仇討ちを狙う赤穂浪士の一人・前原伊助は吉良邸の傍に町人として住まい、吉良の在宅の日取り・邸の間取り・警護の人数など情報収集し、成功に繋げた。野口先生によれば、江戸城から遠い、両国・深川あたりは武士と町人が混住していたとのこと。
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「江東区芭蕉記念館」
松尾芭蕉が1680年(延宝8年)に日本橋からこの深川の草庵に移住し、門人から芭蕉を贈られ大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けたとのこと。1689年(元禄2年)に弟子の河合曾良と共に、東北・北陸をめぐる『奥の細道』の旅に出かけた。
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「一の橋」
幕府は、江戸の人口増にともない、低湿地である深川地区を埋め立てて拡張した。明暦の大火(1657年・明暦3年)の後に材木置き場=木場が置かれ、水運・商業地区として賑わった。埋め立ては、隅田川に対して縦・横に規則正しく掘割を掘削し、排水路と盛り土を作って行われた。この地点は隅田川から入って一つ目の橋とされて一之橋と命名されました。
赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋でもある。
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「万年橋」
延宝8年(1880年)の江戸地図に記載がある。江戸の東近郊から野菜・米・塩などを舟で運びこむ運河(小名木川)に架かる橋であった。江戸時代には運河の航行を妨げないため橋脚を高く虹型に架けられ、名所絵図にものっていた。現在は橋の東側に「新小名木川水門」があり、橋の西側で小名木川は隅田川と合流する。海に近い場所にあるので、舟の出入りのチェックを行う川筋番所が置かれました。
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「清澄公園」
深川地区にある庭園。初めは、江戸の豪商・材木商、紀伊国屋文左衛門の別邸だったと言われます。その後、諸大名の別邸として用いられ、明治11年には岩崎家の所有になりました。関東大震災の後、庭園部分を東京市が寄付を受けて修復し昭和11年に公園とて公開されました。渡り鳥や鷺も居ます。いわゆる、日本の三大銘石の一つと言われる「佐渡の赤玉石」(残りの二件は神戸の本御影石・鳥取の佐治川石)など産地を標示した名石がある。
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「永代橋」
元禄11年(1698年)5代将軍綱吉の50歳を祝して、当時「深川の渡し」のあったところに架橋された。上野寛永寺造営の余材木を使い、深川と日本橋を結ぶ橋として架けられた。1719年に幕府財政の逼迫により、廃橋となりかけたが、町民衆の嘆願により、維持管理に伴う諸経費を町方が負担することで存続した。通行料をとりまた、橋詰めで市場を開くなどした。後日(1807年)に祭礼に詰め掛けた群衆で落橋するなど、話題に富む。赤穂浪士が泉岳寺に向う際に通った、橋の東詰めには、赤穂義士休息の地の碑が建っている。現在も橋からの眺めは印象的である。
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「八丁堀」
江戸時代に開削された堀の長さが約8町(約873m)あった事から「八町堀」と呼ばれた、江戸町奉行所の同心・与力の居住区であった。
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「旧浅野邸」
築地の聖路加病院の近く、芥川龍之介生誕の地の碑の近く。この一帯は。浅野邸→杉田玄白邸→英国公使館→慶応義塾発祥→共立女子学院→牧場→聖路加病院と変遷したとのこと。中央区説明
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「堀部安兵衛旧居」
亀島橋西詰の水谷町に堀部安兵衛が一時すんでいたとの説で、「堀部安兵衛武庸之碑」があります。
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