「2011年3月11日14時46分の東日本大震災」から2年と10ヶ月が過ぎてしまいました。被災された方々の為に、夫々出来ることを、粘り強く続けたいと存じます。
同期・野口武彦さんは、ご自分の「阪神淡路大震災」の被災経験と重ねて、「安政江戸地震 災害と政治権力」を出版し『安政江戸地震の12年後に幕府が崩壊した。 衆人環視のなかで巨大災害の手当てをキチントやれない国家権力は長続きしない』と記述しました。
『2012年9月2日追記』 NHK防災番組「釜石の奇跡」を見て、恩師・都立戸山の故柴田治先生を思い出しました。先生は、旧制中学と新制高校の両方に教鞭をとられ、逝去時には多くの新聞が記事にした「府立四中・都立戸山の名物教師」です。
卒業後数年して、先生をお招きしたクラス会で津波の話が出た時に(1983年5月26日の日本海中部地震・遠足で海岸にいた小学生43人中14名が落命。慰霊碑記事こちら)。柴田先生は「海岸で地震があったらすぐ避難せよと、小学教科書に書いた時代もあったのだがと珍しく慨嘆されました。常日頃は絶えて新時代の批判などされす、「○○先生は優秀な方なんだよ」と新時代の若い先生を褒めておられた先生でしたが、教科書から消された津波の話は残念だったのだろうと思います。昭和12年から昭和22年の(国定)国語教科書に「稲むらの火」が掲載されていたが、時代の推移で消されたらしい。再び、小学校で津波避難を教える時代がくるとは・・・ なお ウィキペディア「稲むらの火」はこちら。
『過去の歴史的事実を充分に知って未来に備えることが大切と思います』 のご発言を味わいたく思います。
『2012年11月15日追記』 日本語で言う「説明責任」と「アカウンタビリティ」
大学の同期で、卒業後、カリフォルニア工科大学で博士号、そして米国国籍を取得してNASAで人工衛星姿勢制御プロジェクトで業績を挙げた大竹 博博士の、今回の原発事故について「政府事故調と国会事故調の報告書を熟読された感想」を入手した。一つの見方として、興味あればご一読ください。
傾聴すべき点は多いと思うが、「アカウンタビリティ」を「説明責任」でなく「最終責任」と訳して居られるのが新鮮。我々の時代の戸山の先生は「責任を引き受ける人材」を育てようとされたと思うが。
『2013年3月23日追記』 都立戸山高校で、畑村洋太郎氏の『昭和38年卒業50周年記念講演会・福島原発事故調査・検証を終えて(=>文字起しアリ)』が行われました。 講演の中で、
『電源喪失した暗黒の原発内で自分たちの自動車のバッテリーを担いでき
て計器を読み取るなど、マニュアルに無いことが起きた時に自己に付託 された
使命を考え、主体的・能動的に行動した素晴しい人々の御蔭で今がある』とか
『事故発生直後に、オフサイトセンターから放射線量増を理由にセ ンター員が
避難したが、実はセンターの放射線防護の予算は3年前から確保されており総務
省は毎年注意喚起していたと言う不作為があった』とか 『9.11米国の同時多
発テロのあとで、米国から非常用発電機とコンプレッサー準備の必要性が機密保
持のため口頭で助言されたが上部に伝達しない 傲慢があった』など、『各人に
付託された責任』を問ぅ等が言及されました。
『2013年5月28日追記』 同期で駐在武官歴任の井田さんが、『岡部伸著の「消えたヤルタ密約緊急電」』について「情報資料を分析評価する人がきわめて重要な役割を示すことが分かる」とコメントしておられます。 同書については、月刊文藝春秋の2013年6月号の「半藤一利・船橋洋一:原発事故と太平洋戦争」においても、「小野寺情報を生かさなかったこと」と「2001.9.11同時多発テロ後の米国原発の安全対策情報を生かさなかったこと」が、共通したパターンとして指摘されております。
『2013年8月26日追記』 元東京電力福島第1原発所長、故吉田昌郎さんが死去され、お別れ会が8月23日に行われました。周囲の発言は色々ありますが、ご本人は、更なる処理に参加出来なかったことが残念であったろうと推察し、謹んでお悔やみ申し上げます。
『2013年11月24日追記』 同期・野口武彦さんは、最近の著書「慶喜のカリスマ」のなかで、「画像に頼らず、文字を黙読して内容を理解する能力が廃れつつある」と指摘しています。傾聴すべき意見かと思います。
平成26年1月の、皇居東御苑を訪ねました。 前回の散策はこちら
日時:2014年1月15日(水)
- 写真撮影場所の緯度・経度を計測し、グーグル地図にマーカーを標示してあります。そのマーカーにマウスを乗せると説明が出ます。
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