*都立戸山高校・1956(昭31)年卒業生の資料 画面右の×印で閉じます。   昭和31年卒のページにはここから Count = 696
栗林さんからの情報を掲載します。

夏目漱石の随筆「ガラス戸の中(ウチ)」に次の様な一節があります。


 私(注:漱石)の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。
町とは云い条(イイジョウ)、その実(ジツ)小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、寂(サビ)れ切ってかつ淋(サビシ)さむしく見えた。
 もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内(シュビキウチ)か朱引外か分らない辺鄙(ヘンピ)な隅の方にあったに違ないのである。
 それでも内蔵造(クラヅクリ)の家が狭い町内に三四軒はあったろう。坂を上あがると、右側に見える近江屋伝兵衛という薬種屋などはその一つであった。それから坂をおり切きった所に、間口の広い小倉屋(コクラヤ)という酒屋もあった。
 もっともこの方は内蔵造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵(カタキ)を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。 私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるという噂うわさの安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。
 その代り娘の御北(おきた)さんの長唄は何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私の宅の玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過などに、私はよく恍惚とした魂を、麗(ウララカ)な光に包みながら、御北さんの御浚(オサライ)を聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身を靠(モ)たせて、佇立(タタズンテ)でいた事がある。その御蔭で私はとうとう「旅の衣(コロモ)は篠懸(スズカケ)の」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。・・ 以下略・・(第十九話)


夏目漱石



























夏目漱石記念像と栗林さんとお孫さん

 コメント 

     
『硝子戸の中』(がらすどのうち)は、夏目漱石逝去一年前の最後の随筆。
     
1915年1月13日から2月23日にかけて39回にわたって『朝日新聞』に掲載。
     
作品中の『御北さん』は、栗林さんの祖母の姉で、安政四年(1857)生まれ。
     
夏目漱石の十歳年長のお姉さんだったのですね。
     
漱石は1867年生ー1916年没、著作権が切れたので「青空文庫」に多く収録されています。
     
「青空文庫:ガラス戸の中」
     
勿論、紙の本もあります。 

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