*都立戸山高校・1956(昭31)年卒業生の資料 画面右の×印で閉じます。   昭和31年卒のページにはここから   Count = 624

 「2011年(平成23年)3月11日14時46分の東日本大震災」から7年と6ヶ月が過ぎました。

1995年の「阪神淡路大震災」から20年、2016年4月14日には「熊本地震」、2016年10月21日には「鳥取県中部地震」もありました。 「想定外」を想定し(畑村洋太郎氏)、夫々出来ることを、賢く続けたいと存じます。

 同期・野口武彦さんは、「阪神淡路大震災」の被災経験と重ねて、著書『安政江戸地震 災害と政治権力 ⇒』において『安政江戸地震の12年後に幕府が崩壊した。 衆人環視のなかで巨大災害の手当てをキチントやれない国家権力は長続きしない』と記述しました。 

『2012年9月2日追記』
NHK防災番組「釜石の奇跡⇒」を見て、恩師・都立戸山の故柴田治先生を思い出しました。卒業後数年して、先生をお招きしたクラス会で津波の話が出た時に(1983年5月26日の日本海中部地震・遠足で海岸にいた小学生43人中14名が落命。慰霊碑記事こちら)。柴田先生は「海岸で地震があったらすぐ避難せよと、小学教科書に書いた時代もあったのだが」と珍しく慨嘆されました。時代の風潮で教科書から消されたのは残念だったのだろうと思います。昭和12年から昭和22年の(国定)国語教科書に「稲むらの火=1854年11月5日に和歌山県で起きた津波の話、後に『世界津波の日』制定の根拠となった」が掲載されていたが消されたようです。しかし再び、小学校で津波避難を教える時代が来てしまいました。  なお ウィキペディア「稲むらの火」はこちら。

『2016年2月17日追記』
 同期・野口武彦さんは、近著『花の忠臣蔵⇒』で、「忠臣蔵は長らく、われわれのもっとも純な心情ーーー素朴な正義感、不正を許さないという勧善懲悪主義、しなければならないことをやり遂げる責任感、その信念を貫きとおすプライド、艱難辛苦に耐える辛抱心など多くのプラス感情の源泉であった。」としています。

『2018年3月15日追記』
 同期・野口武彦さんは、近著『元禄六花撰⇒』で、「元禄の末期は地震に襲われ、宝永と改元され、将軍綱吉が没します。メディア、バブル経済、セックスとカネ……。この時代の諸相と現代とには、おそろしいくらいの共通性が読み取れます。本書は元禄の諸記録に分け入り、まさに終わろうとする平成と時空を往還しながら、いまなお日本人の心性の根底にあるものをあぶり出します。」としています。

  戦後70年余。先の大戦で集団疎開・大空襲などを体験した世代として『過去の歴史的事実を充分に知って未来に備えることが大切と思います』  の御言葉を味わいたく思います。



平成30年09月の、皇居東御苑を訪ねました。 前回の散策はこちら 
日時:2018年09月19日(水)

  • 写真撮影場所の緯度・経度を計測し、グーグル地図にマーカーを標示してあります。そのマーカーにマウスを乗せると説明が出ます。










「ヌルデ・彼岸花」
「果樹古品種園」
「バラの島」
「はるかのひまわり」
「ヌルデ・彼岸花」

「ヌルデ・彼岸花」
ウルシの仲間の「ヌルデ=落葉高木」の花ががありました、幹から出る白い汁を物に塗るのでこの名前、咳止めの薬とのこと。例年の様に「彼岸花=曼珠沙華」の季節です。

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「果樹古品種園」

「果樹古品種園」
ミカンの季節でした: ●紀州ミカン(無核紀州)   温州蜜柑の普及以前には、小蜜柑、本蜜柑等として普通に栽培されて いた、古い時代に日本に中国から伝えられた種類である。
●臭橙(カブス)   インドヒマラヤ地方に源を発し、中国揚子江沿岸地帯並びに日本の各 地に分布する。日本には非常に古く渡来したもので、『本草和名』(深根 輔仁,918年頃)には橙として記されている。古来正月の飾り付けに用いられている。
●三宝柑(さんぼうかん)   伝承によれば、その昔紀州徳川家和歌山城内にあり、その後家臣の邸 内に移り田栖川村方面に伝播したという。これを三宝柑という称するのは紀州候 に献上の際に三宝に載せたためと伝えられる。
●江上ブンタン   徳川四代将軍時代に、中国からのの帰化人で長崎県東彼杵郡折尾瀬村 三河内において陶業を営む孫如猿が、住民に 分けたものの実生から発生したものと伝えられている。
「果樹古品種園」について詳しくはこちら
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「バラの島・キモッコウバラ」

「バラの島」

「フロレンス・ナイチンゲール」も花がおわりでした。棚に這わされた「キモッコウバラ」の蔓が元気に伸びていました。花芽がたくさんついているのだそうです。
お手植えについて詳しくはこちら
(画面クリックでスライドシウ)
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はるかのひまわり

「はるかのひまわり・」


「はるかのひまわり」は、花が終わっていました。種子を蒔き、花を咲かせ、そして種子をとりいれて来年に備えるのは、農耕文化の基本だと思いました。日本列島で弥生時代から行われて来たことなのでしょう。
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