*都立戸山高校・1956(昭31)年卒業生の資料 画面右の×印で閉じます。   昭和31年卒のページにはここから Count = 82

C組:野口武彦さんが、ご自分のホームページを投稿可能にされました。
    
高校・大学の同級生の皆さん(まだ生きていたら)ヒヤカシをどうぞ。』と仰っています。
    
・・・都立戸山は野口先生にとって、どの様な場所だったのでしょうか???・・・野口さんに関する某戸山女子生徒の記憶として「一年生の国語の時間に、○○先生が「哲学者○○○の本を読んだひと?」と挙手をもとめたら、野口さんお一人が「ハイ」と言って挙手された。長身で眩しい男子生徒であった、と申しておられましたが。
    
以下、野口さんのホームページのリンクを表示、一部を引用させて頂きます。
    
野口武彦 公式サイト』  
    
新規おひろめ 本ブログが 双方向に変わりました!
     

『一部引用』
今回このホームページを双方向にしたのは、最近、奇特にも本ブログを寓目して下さる読者  それとも訪問者というのでしょうか  がどんな人たちなのか掴んでおきたい気持がつのって来たからです。話が通じているのでしょうか。拙老としては、おおまかに言って、3つのグループに分けて把握しているつもりです。
     
@拙老と世代を共にしている人々。いってみれば「六〇年安保」組です。本当をいうと、語りかけるのがちょっと遅すぎたかも知れません。しだいに幽冥所を変えた人々が多くなって、拙老などは「生き残り」の仲間に属します。この年代層だけが体感できた時代の合わせ目のようなものを、もっと語り明かすことができるのではないか、という気がしています。唐牛健太郎は早死しました。北小路敏も世を去りました。青木昌彦も西部邁も亡くなりました。生き残った面々が、このまま黙って埋もれてしまういわれはありません。
     
A次に考えているのは、思い切って射程を広げ、まだこの世に生まれていない読者に呼び掛けることです。いわば未生の知己へ発信しておくことです。現代日本の《言語衰退》  文運隆盛の反対概念のつもりです  ぶりは当分の間ずっと下降線をたどり、やがてスッテンテンになるでしょうが、その索然砂を噛む時代をみずからも粘菌の胞子のように渇いた原形質と化してひたすら時世に耐え、今はどこかに飛び去っているコトダマが戻って来るのを待ちかねていることを拙老は確信しています。いや、そういう「見ぬ世の友」がどこかにいると直感できます。 思えば、文学の相場が下がった時代  雑書の多量販売とおおむね反比例します  は何度もありました。江戸時代だけに話をかぎっても、天明のピークの後、文化文政・天保・幕末と尻下がりが続きますが、やがて明治の文芸興隆期を迎え、戦争の時代に低迷し、また戦後文学の開花期を迎えました。逆説的になりますが、文学が「丈高く」なるには、前世代の人々が浸っている文化的現状に絶望し、呆れ果て、コリャイカンと気を引き締めるのが前提であるような気がします。してみれば、近い将来のスッテンテンにも、あたかもある種の貝殻成分のうちに真珠が育まれ、地底の岩層のすさまじい重圧がダイヤの原石を結晶させるかのように、環境整備の意味があるのかも知れません。
     
B最後に、拙老が大学勤務時代に接し、その後も何かとつきあいのある、いわゆる「教え子」たちのグループがいます。前後35年間一つの大学にいたわけですが、今振り返ってみると拙老はあまりいい先生ではなかったように思います。そもそも拙老は学問を教えるのが苦手でした。本を読めば覚えられることをワザワザ教室で習う必要はあるまい、というのが拙老のスタンスでした。当ての外れた昔の学生さんたち、ゴメンナサイ。そのかわり拙老はおよそあらゆる文学の根底にある「情感」を力の及ぶ限り伝えて来たつもりです。「情感」とはすぐれた文学を読んだ時、心の底から駈け上がって全身を揺さぶる、ナマモノの感動のことです。文字通り「動かされる」のです。幸福感・達成感・満足感のきわみにふと兆す「かなしさ」だといっても構いません。(「かなし」という日本語を語根的底層にさかのぼってみると、たんに悲哀を意味するだけでなく、親愛・愛惜・感慨といった領域まで幅広い意味成分を持っています。民俗学者によれば、稀少・珍奇の語義もあるそうです。) もちろん拙老は「教え子」の皆さんに一緒に「文の防人」をやろうよ、とお誘いしているのではありません。八十面下げて「小説」をめざそうというクレージーな老翁につきあういわれは誰にもないことはよく分かっています。ですが少なくとも、旧師はかなりホンキデ現在の言語状況に危機意識を持ち、なんとか貧者の一灯を献じたいと心願を立てた八十翁であると御承知おき下さい。
『引用おわり』