*都立戸山高校・1956(昭31)年卒業生の資料 画面右の×印で閉じます。   昭和31年卒のページにはここから Count = 312

東日本大震災10年です。3月11日の東日本大震災発生に伴い、「原子力発電所事故全般についての対応及び広報担当」を担当された 細野豪志氏の著作と事故後9年経過し出版された畑村陽太郎氏の著作を紹介させて戴きました。

『細野豪司氏(1950年生)は

原発事故からの復興のプロセスにあった2011年から2012年末に行われた様々の判断が、その後の福島の復興と我が国のあり方にどの様な影響を与えたかということだ。一度行われた政治判断を変更することは難しく、復興初期に行われた政策判断は今も福島の復興に大きな影響を及ぼしている。本書の目的は、そうした制作決定の評価と考える得る解決策を教訓を出来る限り明らかにすることにある。』としている。


『2021.2.28 福島原発事故自己調査報告 深層証言&復興提言 2011+10』

●事故から10年が経過してもなお決定的に不足しているのは、原発事故からの復興初期のプロセスにあった2011年から2012年末に行われた様々な判断が、その後の福島の復興と我が国のあり方にどの様な影響を与えたかということだ。一度行われた政治判断を変更することは難しく、復興初期に行われた政策判断は今も福島の復興に大きな影響を及ぼしている。本書の目的は、そうした政策決定の評価と考えうる解決策とお教訓を出来る限り明らかにすることである。



『2020.1.1 3現で学んだ危険学』

●2007 年から13 年間行った「危険学プロジェクト」の主な活動を紹介しながら,「危険学」のエッセンスについて述べています. 自由にダウンロードしてご活用下さいとのこと。
●今迄、畑村先生は失敗の経験から危険や安全の本質を学ぼうとしてきたが、なかなか目的に達しない、そこで視点を変え「危険を正面から見つめていこう」ということで2008年から「危険学プロジェクト」として機械装置や機械システムばかりでなく子供の遊具や医療現場などの社会全般を研究対象とすることにした、とのこと。




『2013.03.16 S34卒50周年記念講演会・福島原発事故調査・検証を終えて・畑村洋太郎 』

が戸山高校において開催されました。
  講演の中で、 『電源喪失した暗黒の原発内で自分たちの自動車のバッテリーを担いでき て計器を読み取るなど、自己に付託 された使命を考え、主体的・能動的に行動した素晴しい人々の御蔭で今がある』とか 『事故発生直後に、オフサイトセンターから放射線量増を理由にセ ンター員が 避難したが、実はセンターの放射線防護の予算は3年前から確保されており総務 省が毎年防護実施の注意喚起をしたにも関わらず、実施しないと言う不作為があった』とか 『9.11米国の同時多発テロのあとで、米国から非常用発電機とコンプレッサー準備の必要性が機密保持のため口頭で助言されたが上部に伝達しない 傲慢があった』など、『各人一人ひとり、に付託された責任』を問ぅお考えが述べられました。

記念講演録音の一部書き起こし

『2013.04.13 特別対談 畑村洋太郎 vs 加藤陽子 福島原発事故から何を学ぶか 』

  対談の中で
●畑村:日本は「独立した個」をつくらないことを是として、最大効率で動くことばかり考えてきた。そのツケが今回まわってきたように思えます。
●加藤:これは近代日本の軍事史を研究している歴史家として、すごく既視感を覚えます。  たとえば、日米開戦を決意するにあたって、海軍のある動員課長が調べた「戦争になったら船舶が爆撃されてどのくらい失われるか」というデータが重要な意味を持ちました。彼は開戦派の上司に調べろと言われたから、撃沈数は少ないほうがいいんだろうと、わざと第一次世界大戦中の古いデータ、つまり航空機による爆撃のない時代のデータを調べて上に提出する。  その数字が御前会議でも使われて、結局、「撃沈される船舶量より建造できる船舶量のほうが多くなる」「ならば、開戦オーケー」という重大な決定につながりました。