*都立戸山高校・1956(昭31)年卒業生の資料 画面右の×印で閉じます。   昭和31年卒のページにはここから  

同期の栗林昌輝さんの、お骨折りで「三国峠・三国街道=国道17号線と苗場周辺の新緑」を見に行きました。2010年6月5・6日のことです。
 三国街道は「関東と越後」をむすぶ道路で、古くは上杉謙信の関東進攻路、江戸時代は佐渡金山への路、幕末の戊辰戦役において、江戸城無血開城(1868年4月11日)の後、「朝敵・会津征伐の官軍」の進攻路(→)、宇都宮戦争(4月19日)河合継之助の榎峠の戦い(5月10日)などなどが続きました。 明治大正では、東京・新潟港・満州への交通路です。

  • 日時:2010年6月5・6日(土・日)14時
  • 集合:高田馬場駅前交番集合
  • 交通:栗林さまお手配

JR高田馬場駅前の交番
渋川伊香保出口
白井宿・宮本町
水路と宮本町の井戸
国道17号線・沼田駅入口
緑の回廊・三国線
清津峡入口と観光トンネル
清津峡の柱状節理
上杉氏の穀倉・魚沼地区
直江兼続の居た雲洞庵

「JR高田馬場駅前の交番」
出発は、栗林さんのお店に近い「JR高田馬場駅前交番」集合です。

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「渋川伊香保出口」
東京から川越・高崎をへて関越自動車道の「渋川伊香保IC]は伊香保温泉・草津温泉への玄関口です。
ここを出て、国道17号線を走ります。 みちの駅「こもち」から旧道に入ると白井宿があります。

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「白井宿・宮本町」
15世紀中頃、利根川と吾妻川の合流地点が作り出す河岸段丘上に白井城が構築されました。 城主は関東管領上杉氏の配下である白井長尾氏。戦国時代を経て次々と城主が変わった後、江戸時代初期に白井城は廃城となり、岡上(おかのぼり)代官の治めるところとなり、代官は南北に細長い町の形を利用し、短冊形 の町割りをした。町の北端に木戸を設けて道を開き沼田方面と連絡すると、三国街道、 草津街道にも接続する交通の要衝となり、市場町として賑わった。

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「水路=白井堰と宮本町の井戸」
白井堰=代官の命で作られた当初は雨水の排水溝で、しかも細長い町並みを利用して馬場にされてしまった。町の端から端までは約1km。ぐるりと2回りするとおよ そ一里となるため馬場にはうってつけというわけ。通行人は馬が走ってくると反対側の道に移動し、住民は道ならしに追われる時期もあったという。昭和22年に農業用水路となり、現在は群馬用水が流れている。
約1㎞の間に8つの井戸がある。古くは江戸初期(1624)に掘られた「薬師の井戸」から昭和4年(1929)に掘られた「宮本町の井戸」まで、8つの井戸は枯れることなく現役で利用されている。歴史の街並です。

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「国道17号線・沼田駅入口」
国道17号は、中山道(中仙道)の一部(江戸 - 高崎)および三国街道の一部(高崎 - 長岡)を継承する路線です。三国街道は関東と越後を直接結ぶ唯一の道として江戸時代より重視され、1877年(明治10年)には国道一等に指定されました。
1934年(昭和9年)5月1日の内務省告示第251号によって、国道9号が三国街道経由で新潟市まで延長されて「東京市より新潟県庁所在地に達する路線」となり、現在の国道17号のルートとなりました。これは、東京と満州を結ぶ最短ルートとして三国峠越えの道路が注目されたためもあります。戦後1957年(昭和32年)2月、三国トンネルの完成により群馬・新潟県境に初めて自動車の通れる道が通りました。
関越自動車道の関越トンネル(10Km)は、三国峠でなく谷川岳を貫通している。

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「三国峠への登山道と緑の回廊・三国線」
緑の回廊とは、今ある保護林をつないで、動物が気持ちよく歩けるように木を切らずに木陰を残したり、動物がお腹すいたときや、一休みしたくなったときに、安心してご飯を食べたり、休んだりできる場所を作り、この通り道のことで、「緑の回廊(コリドー)」とて呼んでいます。
緑の回廊三国線は、おもに群馬県、新潟県、長野県の県境となっている三国山脈に作りました。登山道が整備されています。
栗林さん他の一行で、三国峠の山頂(標高1,635m)近くまで登山しました。 美しい眺めでした。

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「清津峡入口と観光トンネル」
越後側の観光地として、「新潟県十日町市の清津峡」は「富山県黒部市の黒部渓谷」、「三重県の大杉谷」と共に日本三大渓谷・国指定名勝・天然記念物となっています。
古くは川沿いの遊歩道からの観光でしたが、平成8年(1988年)にトンネルが開通し通年観光となりました。国土開発の一環と思います。

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「清津峡の柱状節理」
節理(せつり、joint)とは、岩体に発達した規則性のある割れ目のうち、両側にずれの見られないものをいう。マグマ等が冷却固結する際や地殻変動の際に生じるもので、割れ目の両側にずれが見られる場合は断層と呼ばれます。
柱状節理(ちゅうじょうせつり、columnar joint)は岩体が柱状になった節理。六角柱状のものが多いが、五角柱状や四角柱状のものもある。玄武岩質の岩石によく見られ、マグマの冷却面と垂直に発達する。
北海道の層雲峡、福井の東尋坊、宮崎の高千穂峡も同じです。
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「上杉氏の穀倉・魚沼地区」
三国街道は昔中山道の高崎と北国街道の港湾・寺泊を結ぶ街道でした。戦国時代には上杉謙信の軍用道路として、江戸時代には参勤交代用として重要視され、特に江戸時代初頭に発見され日本最大の金山となった佐渡金山が開発されてからは物資の輸送路として幕府は整備に力を入れました。魚沼地区は三国峠の越後側で「銘柄米・コシヒカリ」の産地です。

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「直江兼続・上杉景勝の居た雲洞庵」
雲洞庵は「天地人」の主人公、与六(のちの直江兼続)と喜平次(のちの上杉景勝)が少年期に学問を学んだ曹洞宗の寺院です。
往古より越後の国では、「雲洞庵の土踏んだか」と言われ、門より本堂に至る石畳の下に法華経を一石一字ずつしるし、その経石を敷きつめたことことから、1年に1度赤門が開かれた時、お参りの善男善女が、その有難さに随喜して言い合ったのだと云われおります。大勢の禅僧を収容した寺で、豊かな土地柄がわかります。
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