*都立戸山高校・1956(昭31)年卒業生の資料 画面右の×印で閉じます。   昭和31年卒のページにはここから Count = 88

戸山高と私 (I did it my way)

下は、1969年にフランク・シナトラが歌った有名な曲で、英国では惜別の曲だとのことですが、何か今の我々に響くところを感じます。私も戸山高について、己の知る過去を記述し共有したらと思い、担当に依頼してみました。なお写真集はこちらです。
                    3E 井田 武宣 
♪"And now, the end is here
And so I face the final curtain
My friend, I'll say it clear
I'll state my case, of which I'm certain
I've lived a life that's full
I traveled each and ev'ry highway
And more, much more than this, I did it my way" ♪   作詞者 ポール・アンカ

  HP担当から  シナトラ原曲と解説、その他関連リンク・関連著作など追加させて頂きました。

(1)校風

戸山高校は明治21年(1888)に創立、明治34年(1901)に東京府立四中と改名し、校舎も牛込区市ヶ谷加賀町にあり、府立一中(現日比谷高校)を追い越せとばかりに進学率を競い、猛勉と規律が厳しい学校で東大教養課程の前身の第一高等学校などの名門の旧制高校、陸軍士官学校及び海軍兵学校に合格した生徒が多い名門の歴史ある学校であった。 しかし、戦後は生徒の自主性を尊重する学校で、校則を盾にとやかく云われることは皆 無だった。

おそらく戦前の校風であったら私は三年間通学できたかどうかわからないし、案外成績不良で退校になっていたかもしれない。 市ヶ谷加賀町の校舍は空襲によって焼失し、昭和49年(1974)に明治通りに面した新宿 区戸山町に移転し、翌年「都立戸山高校」と改名している。 このあたり一帯は、昔、戸山ヶ原と言われ。旧軍時代には柔剣道と体操などの戦技を訓練する陸軍戸山学校があったといわれている。 戸山高校の校歌は ♪雪に磨ける富士の高嶺 緑に映る 戸山の森・・・・・♪ とあるが、陸軍戸山学校の校歌は ♪帝都の乾(いぬい)深緑の 戸山の森に集(つどい)来る 誉(ほまれ)も高き丈夫(ますらお)は 我が陸軍の精鋭ぞ♪ とある。共通しているのは戸山の森であり、今は面影ないが緑に囲まれた地であったのである。 最寄りのJR駅は高田馬場駅であったが、平成20年(2008)には東京メトロ副都心線が開通し、校門前の西早稲田駅が最も近い最寄り駅となった。

(2)通学

私が通学したのは昭和28年44月から昭和31年3月(1953~1956)である。 私は自宅が代々木山谷町(現・代々木四丁目)にあり、戸山高校へは1年生時代は国鉄 (JR)代々木駅、2年生以降は新宿乗り換えて小田急線参宮橋駅で乗車し高田馬場駅 へ 通学した。

高田馬場駅東口からゆっくり歩いて学校まで約20分である。この20分の徒歩は生徒 同士のコミュニケーシヨンの場として貴重である。 話をしたい男女生徒の乗車時間帯、乗車位置も決まっているからそれに合わせて登 校 する。登校時の電車内は混雑しているから話もできないが、徒歩時間帯は自由に話 ができる。 通学時間帯は始業時間が決まっているので、結局大勢の生徒が一緒になってガヤガ ヤ ワイワイ言いながらの通学で楽しく深刻な話にはならない。 でも、個人的には誰と話をして通学するかによって通学時間の節約になり良いこと だろうが、通学時間の節約より歩く時間の長いほうが、私には有意義だと思う。

戸山高校の校舎は女子学習院短大(2001年まで)学習院女子中・高校が隣接しているので高田馬場 駅か らの通学路は共通で女子学習院生徒の「ごきげんよう!」挨拶が飛び交う通学路も 今は懐かしい。当時は皇女貴子様が通学されていた時代で、貴子様の黒い車が明治通 りから 警察官に誘導され正門に入っていくのをよくお見受けした。 学習院に飛び込んだバレーボールを女生徒に「すみませーん」と云ってよくとって もらったりしていた。 女子学習院は校則も厳しく、戸山高校の生徒とともに通学しているのを見たこと がな く、別に噂めいた話は起こらないが、隣に女子学習院があったことは、良き清涼 剤だった気がする。

(3) 授業

授業開始のチャイムが鳴ると生徒は自動的に席に着き静かに先生を待っている。 席から離れている生徒はいないし、授業は粛々と行われてる態勢はいつも整っていた。 特筆すべきは出席簿が男女に区別されることなく男女一緒の名簿だった。当時、 意識は していなかったが、男女平等の先見性があったといえる。 授業中は真剣勝負である。居眠りなどする雰囲気は全くない。

また、先生方には、日教組の重職を担っている先生も散見され、その影響も多分に受 けた。 そのために左翼的な思想が私の頭に浸透し、防衛大学校時代に頭を持ち上げるこ ともあって誤解を招くことがあったが。後の人生で左翼的な考え方を理解する上で役に 立 った。

(4)進学校

確かに有名大学への進学率が良い進学校であった。 大体、有名大学進学率は都立高校全盛時代で、首位は日比谷高校、次いで戸山高校、そして新宿高校、西高校とつずいていた時代で、開成高校、武蔵高校など私立高校 は問題 でなかった。

しかし、これも昭和42年(1967)、高校入学試験制度が、東京都の行き過ぎた施策によって変えられ、教育の平等化の名のもと都立青山高校とペアを組み、受験生が籤により進学が決まるという学校群制度になり、自分の行きたい学校が籤で決まることになり、都立戸山高校に入校したい生徒が都立青山高校へ入学を余儀なくされるということになり、都立高校は魅力がなくなってしまった。 その結果、優秀な生徒が、学校群制度が適用されない、筑波大学付属高校や学芸大学付属高校等の国立高校や開成高校、麻布等の有名私立高校へ流れ、有名大学進学は昔日の面影はない。最近やっと東京都から進学指定校に指定されたが、その道のりは遠いようである。

私の時代は戸山高校の生徒数は、男子300人、女子100人の男子系高校で、目黒区、渋谷区、世田谷区、新宿区の中学生が受験し、比較的教育に理解があり、教育熱心な山ノ手に育った子弟が多かった。そのような環境を求めて一部遠方から寄留して受験する生徒も見られ、生徒の質もよく、生徒の多くは東大、一橋犬、東京工大などに進学し、慶応犬、早稲田大 への進学はごく当然のことになっていた。 これらの進学率を支えてくれたのは、他校に転勤することなく長い間、四中・戸山高校一筋に勤務してきた先生方の熱意と教育方法や教育内容であった。 先生方にはいろいろ個性のある名物先生がおられ、先生の逸話は後輩に語り継がれ良き伝統になっていた。

現在の高校生とOBが馴染まなくなったのも、在校生と先輩をつなぐ先生方が人事異動で同一高校に勤務できな くなった人事制度によるものと思われてならない。 確かに教師育成の観点からすればいろいろな学校を体験させることが必要であることも 理解でき、学校が教師のためにあり、在校生と卒業生の絆のためにあることではないこと は一つの意見であり、いたしかたがない。

(5)先生方の授業

授業は、入学当初の1年生の授業が何故か記憶が鮮明に残っている。

戸山高校入学の最初の授業は藤村先生、通称「ブル」であった。「誰でもが、東大に入れるわけでは、無いんだよ!」と大いに勉強をするように気合をかけられたが、私には大学進学まで考えて入学してはいないので実感が湧かなかった。今はやっと戸山高校に入学できて、心地よく山手線 に乗って通学しているのだと思うだけだった。授業の教科書は村井メドレーの英会話を使い、毎週一章を暗記してこなければならず、机の横を通りすぎて、セーフと思った瞬間、急に後ろから背中を触られて「えっ 君!」と当てられ、暗唱文を言わねばならず、不確実にしか覚えていないときはいつもドキドキだった。今でも1年生で学習した "I take a bath every other day."というフレーズは忘れられず、先生の真似ができる。でも、英語は暗唱が大切であることを教えてくれ、英会話の基本を身に着けてくれた。

数学は岩崎先生、通称「岩崎さん」。元台湾帝国大学に在籍していた先生だった。先 生は 黒板いっぱい使って授業されるが、その黒板も消すこと数度あるから、ノートするの も大変である。最初の授業で「数の概念」に関して生徒に試問され、その回答として、ある生徒が「自然対数の底のe」と正解したのには、心そこ吃驚した。当時の私は数字の1,2,3、の自然数しか知らなかった。彼は中学時代の入試模擬試験上位の常連で特に数学に長けていた。卒業後、東大に進み全学連の副委員長をやり、学生運動で活躍した。その後、慶応義塾大学のコンピューター室長として勤務している。

社会科は、入学早々、中村先生が「ソクラテスの弁明」を教材として教育した。 自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他 の無自覚な人々に比べて優れているのだという「無知の知」や「悪法も法なり」と言って 死刑 になったソクラテスを思い出す。難しい本を読んだことがなかったのでカルチャーシヨックだった。頭の柔らかいうちに難しい本にチャレンジすることは、有意義で、その後の勉学姿勢や難解なものに対する 挑戦という意味で大きな影響を与えてくれた。 中村先生は「教育とは教師と生徒の人間的接触と相互の理解から出発すべきである」とい うスタンスで私たちに語ってくれた。思い出深い授業であり、戸山高校だからできた授 業だ と思っている。ご本人の自己評価のメモが残っている。

化学は高木先生で「厚木の天才」と言われて東大に進学したということであった。13ヶ国語をマスターしておられ,短い身長のため通称「三尺さん」といわれていた。 遠足で中津渓谷に行った時、先生を新宿駅に置いて行ってしまったことがあったが、 「三尺さん」だから乗車したかどうか確認できなかったことに皆生徒は納得した。 高木先生は1年生のクラス担任であるが、最初に原子(元素)記号と「手の数=原子価」をを徹底的に教えられ、化学反応の理解を容易にしてくれた。防衛大学校で応用化学を専攻した素地は高木先生に培われた。高木先生は特技があった。教えているクラスの出席簿を暗記してしまい、出席簿でなく生徒の方を見ながら出席をとることであった。お陰で私も先生の真似をして出席簿の大半を覚えて しまった。考えてみればつまらないところで頭を使っていた。だから今でも三分の二くらい の同じクラスのクラスメートは出席番号順に呼べる。

保険体育は和田先生、通称「オパチャン」で、女子体育の美人先生の工藤先生と2人 だけ いた女性の先生である。和田先生は1年入学早々、米兵相手の売春が横行していた横須賀ドブ板横丁の探訪の話が印象的であった。日教組の婦人部長をやっておられたのではないかと思う。

2年生の授業では次の先生の授業が印象に残っている。

漢文は「大シヱン」こと福島先生である。九州言葉で「セ」と発音できず「シェ」にな る。最初は何故国語の先生なのに正しく発音できないのかと疑問を抱いていたが、その人柄に愛嬌があり、疑問は自ずと解消してしまった。黒板は最初は丁寧な字で書くが、段々 読 めない字になってくるのもご愛嬌だ。クラスには父が漢学者であるという子弟で、先生と漢文解釈の論争ができる人材もいた。彼は身体が弱く早世してしまった。私たちくらい生きていれば、すごい漢学者になっていただろうと思うと残念で仕方がない。

文学史は米田先生で、私が読書が好きだったせいか、熱中して授業を聞いた。早速、聞いたばかりの「破戒]を読み、主人公丑松を通じて被差別部落の問題を初めて知ることができた。同和問題に関する知識は、自衛隊の関西勤務においては不可欠であり、知識の導入 の糧と なった。米田先生も日教組で活躍していたようである。

西洋史の桝本先生は、一高・東大の秀才で、講師として西洋史を教えてくれた。授業は1点を見つめて、単に歴史を教えるのではなく、いろいろな小説・物語を背景を含めて講義するので、 講義は1年間の正規な時間に終わらず補修になった。当時はあまり世界史に興味がなく 、もう少し私に教養と興味があったらともっと楽しく聞けたのではないかと思い、今 考え ると残念である。当時の授業について友達との会話で「桝本先生がこのような話を してくれた」などという話が出る「ェツ、そんなところまで突っ込んだ講義をしてくれて いたの か」と思い悔やまれる。

生物は北野先生で2年生の担任、通称「ねぎ」、ジェスチャ入りの教育で楽しい生物 の授業だった。お陰で生物も興味を持つ課目になった。でも、生物は覚えることが多く 、頭が飽和状態であった。講義が楽しくかつ面白いだけに、聴いてはいるものだけれど、 頭の中 を素通りしてしまう。

男子体育でお世話になったのは岩切先生で、鹿児島県出身で、いかにも薩摩隼人という 熱血漢でいつも笑みを絶やさない優しい先生でバレーボール部の顧問として私を支えてく れた先生である。弟さんが私と代々木中学の同級生であったので余計親しみがあった。

数学は、日教組の青年部長の武藤先生が数学の幾何は勿論その他ミチューリン農法とかの話題まで教えてくれたが、幾何は苦手だった。試験も4問中1問しか解けなかった。

高校2年生になると、芸術課目、すなわち「習字」「図画」「音楽」は選択によって選ぶ ことができる。当然、どれも選ばず履修しなくても単位が足りなくなり卒業できなく なることはない。私の苦手は「字を書くこと」と「歌を歌うこと」であり少し歌を上手に 歌えればと思い「音楽」を軽い気持ちで選択した。 しかし、音楽課目を専攻した学生はどちらかというと楽器を弾けたり、吹けたりで、また、クラシックに造詣が深い生徒が多かった。何か場違いの生徒が飛び込んだ雰囲気で、「しまった」と思ったが取り消すわけにはいかない。1週2時間の音楽授業は出席することに意義を認め苦痛だった。歌を歌う方は「コールブンゲン」やシューマンの「流浪の民」を2部合唱で歌い ♪これぞ流浪の人の群れ 眼(まなこ)光り髪清ら ニイルの水に浸(ひた)されて煌(きら)ら煌ら輝けり ・・・・・・♪ と低音部を歌ったが、音符もすらすら読めるわけでなし、歌が上手になるわけでない。土台、声は良いとされるが、音程がからきし駄目なのだから救いようがない。挙句の果て期末試験は、和音を先生が弾いて「ドミソ」とか「ドファラ」とか何の和音かを回答するものであり、私には皆同じに聴こえ、回答できなかった。その結果、通信簿に2をいただいた。必修科目では2などついていないのに選択しても選択しなくても良い選択専攻課目で、しかも全部授業は出席しているのに、ショックだったし、それほど駄目だったのであろう。今考えれば正直な厳しい先生だったのであろう。このような前歴があり、要するに音痴なのだ。

3年生の授業では次の先生の授業が印象に残っている。

日本史は平久保先生、容貌から通称「ガンジー」である。1学期始まって直ぐに「大 化のの改新」の授業に入った時、これで日本の歴史は半分終わったといった。なかなか ユニークな先生である。日本史は教科書に書いてあることは当たり前のことで史実は当然 知っているという前提の教育であり、その代わり副読本で古文書を堀りかえしよく読ま された。当時、東大の入学試験ではこのような古文書から出題されていたためでもある 。授業の中でも中国僧「隱元」が3年の任期を幕府将軍家綱の要望により生涯日本で過ごし、黄檗宗を宇治に黄檗山開祖となり、禅宗に影響を与えた話が印象的で記憶に残っている。先生の風貌が何か現世を超越していて隠元のように見えたせいかもしれない。日本史は 昔から好きな課目であったので、授業も一生懸命に聴いた。宇治に行ったときは、必ず万福寺を訪れ、伊丹勤務時代に家族で普茶料理を食べに行ったこともある。「インゲン豆」は隠元が中国から持って来た豆で普茶料理の重要な食材となっていることを知った。 後日、平久保先生は1989年に「隠元」に関する著作を吉川弘文館から出版していると聞いた。

古文は平賀先生、通称「スズメ」、口先が雀に似ているのでそのように呼ぶらしい。 「更級日記」「土佐日記」「とりかえばや物語」などの古典文学のさわりを学んだ が、会社の採用面接で某女子大生の卒業論文が「とりかえばや物語」というので懐かしく思い、質問をしたらびっくりしていた。物語は単に男性と女性が代わったらという話で他愛 ない内容なのだが、先生方は幅広く教えてくれたのだと実感したものである。

数学の佐藤先生は、学校が放課後の時間を使って浪人生を教育してくれていた「卒業生講習会=高校4年生」でお世話になった、受験参考書の旺文社でも有名な名物先生で、NHKのTV受験講座にも出演している。通称「ニヤ」=√8= 2.828だが、「天の一角から声あり」と言いながら数学公式の適用をビシッと決めていく。思わず納得。数学はひらめきが大切だ。ひらめくためには例題をたくさんこなさないとダメなような気がした。ちょっと私はひらめき方が遅いようだ。ニヤさんは受験参考書のアルバイト原稿料で、当時高価だった手回しの機械式計算機を自宅購入し各受験生の成績(偏差値)を算出し、受験指導に役立てたとの話を聞いたことがある。さすが数学の専門家。

国語は宮本先生、通称「ポチ」の源氏物語のさわりの部分が良かった。少し裏にかかっ た高い声で「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めき給ふありけり。・・・・・・」と朗読し、「これはですねえ」とやる。先生はその後、文学博士号を取得され、学習院大学の教授に成られたときいた。

(6)バレーボール部

私の戸山高校の日々は、ただひたすらにバレーボールに熱中していたことであり、その 後 の人生に大きな影響を与える。

戸山高校に入るとクラブ活動の勧誘があり、身体があまり頑健でないので、身体を鍛 える ため、テニスかバレーボールをやろうと考えた。テニスコートを見に行くとコートは2面 しかなく、部員も大勢いてコ一トでボ一ルを打つ機会も少ないと思い、バレーボールを 選択した。 バレーボールは、経験がなくても女子がやる何とかなると甘く考えていた。

しかし、これ は大きな間違いだった。バレーボール部は各大学の選手として活躍している先輩が多く、 時間があれば母校を訪れ、後輩を鍛える伝統があるクラブであったのである。バレ一ボー ル部の歴史は戸山高校の中でも四中時代からある古いクラブである。 四中の体育といえば武道とか器械体操のイメージが強いが、バレーボールは体育の正 課として行われていたそうだ。そんなところから東京におけるバレーボール競技会の会 場にバレーボールの盛んな四中の校庭が使用され、四中が中学の部で優勝していたそう だ。 当時の在校生は、勉強と鍛錬の息抜きに昼休みになると手軽にできるパスをして楽しん でいたのであろう。

このような土壌の中に自然と選手が育ち、昭和24年には東京都代表となって全日本高 校選手権大会に出場し、2回戦敗退、昭和25年にも引き続き全日本高校選手権大会に出 場して、惜しくも静岡の韮山高校に敗れはしたが、準優勝するという快挙を成し遂げ、全国レベルに達していた。先輩達は戸山高校卒業後も全日本のパックレフトをやってい た 弓削田先輩(28年卒)を始め戸山高校卒業の選手が当時実業団より実力のあった大学の バレーボールリーグで、各大学の選手として大いに活躍していた。さしずめ今だったら日 本リーグのプレーヤーばかりだと言っても過言ではない。私達を含むその後の後輩も 、大 学の選手として活躍している人も少なくない。私の所属していた3年間の成績は、東京都のベスト16から8だったが昭和30年 の都の秋季大会でベスト4に入ったのが最高の成績である。その後1年後輩の宮部洋介 さんが後輩の指導を良くしていただき、昭和34年には東京都で優勝している。

また、東京都のバレーボール界に君臨していた都立第三商業高校OBチーム、現役チー ム と年1回秋に定期戦が行われていた。都立三商には明治大、日本鋼管、全日本の選手 とし て活躍され、東京オリンピックの旗手をやられた出町先輩、私の同期には同じ明治大 、日本鋼管の市川君がおり、最高のプレーに接することができた。

バレーボール部員は、中・高年になってもバレーボールに対する思いは忘れられず、宮部 先輩(20年卒)のお世話で年1回、三菱の菱和体育館を借用し、バレーボールを楽しん だりした時代もあったが、流石に加齢に伴いプレーすることは難しくなり、今は中断 され ている。その代わり、昭和17年卒から昭和333年卒の超OBで年1回~2回の懇親会、 そして3年に1回、現役からOBが集まり世代を超えてバレーボールをを楽しみ、懇親会 をあわせ開いている伝統あるクラブなのである。

私たち31年卒には、中学校時代に経験のある三海君、渡辺彦祐君、横山君はとても 上手でひときわ抜きん出ており、金子君、中込君、酒井君もなかなかセンスがあり、練習 をこともなくこなしていた。途中で、古谷君、金谷君も仲間になったが、皆、個性豊か な選 手達だった。

経験のない素人の私はパスと利き腕でない左手のアタック(タッチ)を練習する単調 なも のばかりだった。 春の新人戦の1回戦で大泉高校と対戦して勝つことができた。この時「バレーボール はおもしろい」と強く感じるとともに「自分でもできる」という自信になり、3日の 練習 を愚直に休むことなく続ける大きな動機付けになった。

1年生の那須の夏合宿は、1日の食事費が100円で朝はアルミの茶碗の一膳飯に生卵、味 噌汁が定番で質素なものであった。そして毎日が先輩の激励と叱声及び同期の激励の 中 の練習であった。

練習は、体力のない私にとって体力の限界を超えており悲惨な練習であった。黒磯高 校までの数十数キロの往復の駆け足、フライングレシーブ、夜は宿舎で利き腕の反対側の 手 を強くするために左手にビール瓶を持って手首だけで振るトレーニング、そして左手 で 箸を持っての食事等は足や腕に負荷がかかり過ぎどれを思い出してもきついものだっ た。

余談だが、この訓練のせいか、今でも左手が右手より少し長くなっており、サージャ ントジャンプ(垂直跳び)すると左手の方が高い位置に届くことができる。 しかし、厳しい合宿の中で、練習後に飲む那須高原の冷たい井戸水のおいしさ、那珂 川辺での水浴び、合宿の終わりに肩を組んで黒磯高校の校庭で歌った#戸山高校の校歌は 達成感と充実感に満ち、今も忘れない。ここに青春があった。

秋になるとエースアタツカ一のポジシヨンであるハーフレフトのポジシヨンが与えられ た。その上、練習を休まないことで白羽の矢を立てられたのか、技術も下手な私がこ ともあろうことにキャプテンに指名されてしまった。 私は、チームをまとめることに努力を傾けるとともに自分の力量をアップしなければ 後輩はついてこないと信じて昼休みも必死にアタックの練習をした。やがて練習を通じ て体力もついてきて、ネットからどんなに離れたトスでも必ず相手のコートに打ち込め 、相手のストップ(ブロック)も見えるようになり、ボールをコースに打ち分けて打てる ようになった。その上、後輩に身長1メートル80余ある強力アタッカー辻君(32年卒)堅実なレシーブの宮部君(32年卒)回転のない打ち易いトスを上げてくれる名トサーの吉井君(32年卒)、 アクロバット的な名レシーバー岡君(33年卒)を加えチーム力は強化され、東京都高 校べスト16には常時入るまでレベルアップした。(辻君は三井物産、宮部君は旭化成、吉井君 は東海大教授、岡君は慶応大名誉教授として勤務している)

しかし、私は、絶好調だった2年の春、野球のクラス対抗で盗塁したときに足首靱帯 を断裂し、松葉杖で通学する羽目になり、バレーボールの試合にも出場できず,好調だっ ただけに侮しくてしようがなかったし皆に迷惑をかけ申し訳なく思っていた。

2年生の合宿準備は、昨年の合宿の経験を踏まえ、合宿時の栄養補強やボールの補充 が必要だと考え、合宿の諸費用を集めるため、先輩の家々を回り寄付をお願いして歩いた。

肝心の合宿では疲れが出て微熱が続き練習中ロから血を吐き清瀬先輩(24年卒)が心 配し、紹介状を書いてくれ、急遽、渋谷にあった結核診療所で検査を受けることになっ た。 幸い胸に異常はなく、声を出し過ぎて咽喉が焼き切れたのであろうという診断で一安 心だった。その時、女子のキャプテンだった銭場さんがとても心配し、励まし勇気を与 えて くれたことは今でも感謝している。

2年生の秋はベスト8になったが16校選出の関東大会出場に漏れこのままバレーボー ル生活が不完全燃焼のまま引退するのは残念であった。そこで下級生の同意を得て私だ け 引退を延長し、新宿区の施設を利用し春の合宿に参加し、特別練習を行い最後の春の 大会に臨んだ。幸い順当に勝ち進み、準々決勝で後に明治大学、松下の名アタッカー当麻 君を要する明治高校と打ち合い、辻君の高い位置からのアタックとレシーブ陣の執念のレ シーブでチームに一体感が生まれ,最後の21点目に私に華を持たせようとしてくれた監 督の南條先輩(27年卒)のサインで私にトスが上がり、辻君にストップが集まっていた の で、相手のコートに叩きつけてゲームセット、素晴らしいチームワークで2-1の死闘を制することができた。

日を改めて行われた準決勝は中・高・大の一貫したバレーボールの英才教育をしていた立教高校が相手だったが、当時第一サーブでは珍しかったフローターサーブにレシ一ブが乱れ、実力が出し切れず、念願の決勝の進出できず涙をのんだが、私には高校生活で 最も 思いで深い大会であり、高校生活を燃焼しきることができた。

また、バレーボール部仲間のコンパは私の家か、三海君の自宅で行っている。私の 家が代々木、三海君の家が目黒で交通の便が良かったのかもしれない。私の家で行うなど 今から考えると冷や汗ものだけれども両親が来客にかまわず、特に接客の準備するわ けでなし、場所を提供し、自由に過ごすことが出来たので来易かったのかもしれない。 よく 狭い家に大勢来てくれたものだと当の写真を見て我ながら感心してしまう。

また、女子のバレーボール部の新年会が先輩の柿木さん(26年卒)宅であり、男子キャプテンだった私だけ招待され、4年から5年先輩のOBも来ていたので緊張する中にもゲームなどを行い楽しい一時を過ごした

その他、練習や試合といった表面的な活動だけでなく、予算の配分、部室の建設及 び新宿高校との定期戦に尽力した 当時、学校は予算として校友会活動に2百万円を配分し、運動部及び文化部に各百万円とした。しかし、学校は細部の予算配分を生徒に一任していた。百万円という金額は、「 もりそば」一杯17円から23円の時代であることを考えると大した金額で、全て一任す ることは学校も結構太っ腹だったと思う。

運動部予算は、勢力の強かったバレーボール部とラグビー部の渡辺正君と過去の実績と予算要望に基づき予算案を作成し、キャプテン会議で了承を得た。 この時にバレーボール部は、予算の獲得の容易性を考え、男子と女子-のバレーボー ルの別のクラブとした。ラクビー部と男子バレーボール部は、最高の6万円の予算をいた だくことになった。

部室については当時、教室で着替えるかテニスコートの横にあった狭くかつ汚い小屋 で着替えなければならなかったので、衛生と風紀を考え、岩切先生に建設をお願いし 、卒業 の翌年に数室からなる部室がグランドの南東部に建設された。

定期戦については、教育大付属高校と学習院高等部とは交流があり、両校が全校を挙 げて定期戦をやっているのを知る機会があり、戸山高校も学校行事として全運動クラブの 定期戦を同日に実施し、愛校心のようなモチベーション向上に資することがあれば良いと 考え、進学校として類似の環境にある新宿高校を選び、総合的なスポーツの祭典を実 施することを岩切先生に提案した。しかし、新宿高校の花形であった陸上部が戸山高校にないことで、総論了承、各論不可で実現できなかった。それを翌年に申し送った記憶はないのだが、後輩の住田君(32年卒)が努力され、全校挙げての戸山・新宿の定期戦が実現し、現在も学校行事として行われている。 卒業後、新宿高校で行われた定期戦を観に行く機会があり、在校生が応援に来て楽 しんでいる姿に接し、思わず目頭が熱くなった。

その他、城北会関係がある。先に述べたバレーボール部のOB・OG 総会と超OB会があり、これにはキャプテンをやっていた関係で必ず参加しなければならない。

私は戸山高校でバレーボール部の多くの良き先輩を通じリ一ダーシップや責任感を 学び鍛えられ、体力に自信を持つことができた。 今日あるのは、バレーボールを縁として鍛えていただいた先輩や支えてくれた同期・後輩 に感謝する。

(7)1年C組

ア 遠足

1年C組の遠足は、春は中津川渓谷、夏は有志で河口湖にハイキング、秋は伊豆一 碧湖に行った。 遠足やハイキングは友達の新たな面を発見でき、仲間意識を醸成するの でとても良い。遠足は学校のお仕着せでなく、行先はクラスごと生徒たちがホー ムルームの時間に決めるので、自由度が極めて高い。それだけ先生方は生徒を信用し ているのだろう。 中津川渓谷は丹沢山麓にあるである渓谷であるが今は宮ヶ瀬ダムが建設され昔日 の 面影は全くないそうである。 河口湖のハイキングは上岡君とボートで鵜ノ島に渡った記憶くらいで、あとは当 時 を?ぶ写真があるだけであまり記憶がない。 一碧湖は静岡県伊東にある周囲4kmの火山湖であり、「伊豆の瞳」と呼ばれる名勝地である。私は全く知らない湖であり、未知の湖に行くことで満足し 、場所選定の段階で一碧湖に手を挙げたものである。確かにあまり人に知られていな いので観光客は私達だけだった。観光客のいない静かな湖面でボートを漕いで遊ん だ 記憶がある 。

イ 演劇コンクール

演劇コンクールほ年に1回1・2年生を中心に行われる生徒主体の行事である。1年 生の時は「三年寝太郎」であったが、出演したらと誘われたが、クラブ活動のバレ ーボ一ルに集中しており、お断りし、その後も行事には全くタッチせず観客として皆の熱 演を 観るだけだった。

ウ 水泳大会

水泳大会はなぜか1年生の時しか思い出せない。2年生以降は水泳大会があっても バレーボールの試合のため出場できなかったのかもしれない。大体タイムは50mが37 秒くらいの実力であった。1年生の時の水泳大会は、最後の200mリレーで勝負が決 まる。 戸山高校で最も速い佐野君がいる1年F組が優勝候補で、私たち1年C組が2番手 だった。決め手は第2泳者の私とF組のW君の出来次第で2人とも責任が重かった。 200mリレーが始まった。第1泳者平野君も健闘し、トップで私にタッチ、私はフ ライングしないように飛び込んで25mは顔を上げずに、いわゆる面被りで必死に 泳いだ。神経が昂ぶっているせいか、少しも疲労を感じず50mを泳ぎ、タッチした ときは飛び込んだ時より幸いW君と差をつけていた。第3泳者もそのままリ一ドを 保ちトップで折り返す。この差ならアンカーの井上君もいくら学校で1番速い佐野 君に抜かれることはない。遂に皆の総合力で優勝できた。嬉しかった。水泳好き な私は、実は高校生になっても夏休みになっても戸山高校のプールで泳いでいたが、 同級生はあまり知らなかったので不安だったのであろう。毎日泳いでいると水の乗り方が違う。やはり継続は力である。勉強もそうなのだけれどもなぁ~。

エ 大久保射場問題(銃声問題)

道路をへだててすぐ隣の、現在の大久保戸山ハイツ地区に、旧日本軍から米軍が引き継いだ、屋根付きの実弾射撃演習場、「覆道射場=音や弾丸が拡散しないように数百メートルにわたって、半円形のコンクリートの屋根をつけた練習場」があり、実弾射撃演習を行っていた。 昭和27年(1952)以来、ホームルーム=>生徒会校内で騷音問題が表面化し、生徒会が基地反対運動を起こし、国会や都議会に射場閉鎖の閉鎖 を申し入れ、朝日新聞や社会タイムズにも取り上げられ、騒音がどの程度か教室に関係機関が音響測定に来た。次第に周辺住民の声も上がり政府を動かす結果になった。 これらの活動の結果、昭和28年(1953)9月に覆道射場は閉鎖になった。(同年7月に朝鮮戦争休戦協定が締結されている) このような運動やマスコミの対応は実際にはあまりピンとこなかった。 この頃からマスコミの取り上げ方で世論が構成されていくものだと思った。 しかし、いずれにせよ射場問題は、立地条件から見て時間の問題であったと思う。 当時の戸山高校新聞の紙面

(8) 2年G組

ア 遠足

2年生の担任は北野先生である。2年生の春は甲府昇仙峡である。昇仙峡は大正 1 4年に建立されたアーチ状の長とろ橋を渡り渓谷沿いに歩いて行くと僧覚円が 修行したというシンボル壁の「覚円峰」があり、やがて高さ3 Omから落下する「仙娥滝=せんが滝」に到着する。この滝は高さがあまりないが、水量が豊富でなかなか見ごたえがあ った。 秋は日本百名山の一つ箱根金時山に行く。標高は1213mあり乙女口から約30分 で乙女峠、更に長尾山からで金時山へ登る道は多少険しいがー気に登る。天気 は素 晴らしく良く、富士山を初め遠望ができた。この時は、まさか将来御殿場に住 み毎 日富士山と金時山を見て過ごすとは夢想だにしなかった。金時茶屋の金時娘も 若 い娘の時代だった。 山頂でコロブチカとかマイモマイモのやさしいフオークダンスを楽しんだが、 どうもフオークダンスはなかなかステップが覚えられず苦手だ。やはり音楽「2 」だ。 夏休みの天覧山ハイキングはみな打ち解けて楽しいクラス会だった。 天覧山は飯能市にある標高190mの低い山だが、赤松が繁り、静かな山であり、 頂 上から飯能市を初め関東平野が望め展望は良い。流石明治16年(1833)明治天皇 が 陸軍の大演習をこの山頂から統裁され、「天覧山」と呼ばれたことはある。今 はバードウ才ッチンダの人たちには人気のスポットだそうだが、当時はその気配も な かった。私たちは山の頂にある茶店を借りてゲームをやったり、話し合ったり 大い に楽しんだ。逆立ちの得意なものは、逆立ちのパフォーマンスをやる者、木登 りの 得意なものはまつ直ぐの松の木に登るパフォーマンスをやる者、普段、学校内 では 見られない幼稚な技を披露していた。 青春時代は何をやっても楽しい時代である。 3年生になる春休みは有志で相模湖へ行った。相模湖は昭和22年(1947)にでき た ダム湖で東京オリンピックではカヌー会場となり、今はボート競技の拠点とし て、 また、ブラックパスの釣り場として脚光を浴びているが、当時はあまり人の寄 り付 かない観光地であった。おまけに4月1日というのに雪に見舞われ、観光という より旅館の1室を借り、皆でゲームやおしゃべりを楽しんだ。

イ 修学旅行

修学旅行は春休みだったので2年G組のクラス編成のまま関西に行くことになっ た。関西観光の中でも4コースの計画があり、生徒に選択させたので興味ある 観光 地に行くことができた。私は中学校時代に行った場所には行かないこと及び歴 史 上有名な場所を重点としてコースを選んだ。先ず奈良の法隆寺、薬師寺、唐招 提寺 東大寺はいずれも名刹だ。法隆寺は中学校の修学旅行で来ているが、やはり、 自分 の成長に伴って視点が異なるし、深さも異なるので非常に勉強になった。次い で西 の京にある薬師寺及び唐招提寺を訪れる。 平城京は中央の朱雀大路から西を右京と呼称し高等役人が住み、東を左京と呼 称 して下級役人や庶民が住み、業務に失敗して西の京から東の京に住まいを移す こ とを命ぜられることから「左遷」という言葉が生まれたことは知らなかった。 薬師寺は西の京にあり、天武9年(680)天武天皇が持統天皇の病気平癒のため創 建 された法相宗の大本山で初めは飛鳥の地に建てられたが、養老2年(718)に平城 遷 都に伴い現在の場所に移転している。幾度の災害と享禄2年(1528)の兵火によ り、 当時の建造物は東塔のみが残り、金堂は江戸時代再建のものであった。 その後、名物管長で話の上手な高田好胤によって写経運動を通じて資金を集め 、金 堂は昭和51年(1976)に、西塔は昭和56年(1981)年に、中門は昭和59年(1984) に、回廊は平成3年(1991)に再。 この資金調達力はたいしたもので一般寺院より法話が面白く、写経運動のアイ デ アなど寺院経営に長けている。 同じ西の京にあるのが唐招提寺である。唐招提寺は、天平宝字3年(759)に来日 し た唐僧鑑真によって創建された律宗のお寺で境内には金堂、講堂、宝蔵、鼓楼 など がある。日本史で教わったお寺でもあり、閨心が深かった。有名なお寺なのだ が、 観光ルートに載っていないのか、私たち以外訪れる観光客は誰もいない。 宇治に行く。 宇治は「源氏物語」の「宇治十条」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別 荘が 多かったそうで、現在の平等院の地は9世紀末頃、光源氏のモデルとも云われ る左 大臣である嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、長徳4 年 (998)に摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長の子の関白_ 原 頼道は、永承7年(1052)「宇治殿」を寺院に改め、これが「平等院」の始まり だと いう。平安時代後期、釈迦の入滅から2000年目以降は、仏法が廃れ、天災。人 災 が続き、世の中は乱れるという「末法思想」が生まれ、平等院が創建された永 承7 年(1052)は、丁度「末法」の元年に当たっており、当時の貴族は極楽往生を願 い、 天喜元年(1053)西方極楽浄土の教主とする阿弥陀如来を祀る鳳凰堂を建立した の である。従って平等院鳳凰堂は東向きに建っており、平等院の中央の格子を丸 窓に 切って、中堂の前の池の東岸から西方にある阿弥陀如来の住んでいる極楽浄土 を 見たとき、阿弥陀如来の像を拝めるように作られている。中堂の屋根上には1 対の 鳳凰像が据えられている。中堂の長押の上の壁には楽器を奏で、天女が舞を舞 う姿 が浮き彫りになっている。いかにも極楽浄土という思いがみられる。 日本史で講義を受けた黄檗山万福寺を見学した後、醍醐寺三宝院に行く。 醍醐寺三宝院は永久3年(1115)に建立されているが、慶長3年(1598)豊臣秀吉 が 「醍醐の花見」に際し作った特別史跡、特別名勝に指定されている庭園が有名 であ る。三宝院の門を入り、大玄関を抜け大きな部屋を抜けて庭園全体を眺めるこ との できる国宝表書院に出る。あまり本格的な日本庭園を見ていなかった私は思わ ず 「うわぁ一きれい」と日本の庭園の美しさに見とれてしまう。表書院は縁側に 勾欄 をめぐらし、船べりの雰囲気を醸し出している。庭園は滝があり、島があり、 橋が あるなどその見どころは多いが、ふんだんに使われているダイナミックさに太閤秀吉の気風を感じることができる。 奈良盆地の南吉野まで足を延ばす。吉野は蔵王堂と南北時代に後醍醐天皇が南 朝 の拠点とした吉水神社にいく。 桜の時期でないので吉野桜はお預けである。蔵王堂は東大寺大仏殿に次ぐ木造 の 大建築であり、現在の本堂は天正20年(1592)に再建された室町末期を代表す る 建築物である。高さが約34mもあり、なかなか威風堂々としている。内陣の2本 の金箔張りの化粧柱や須弥壇は太閤秀吉が花見の際に寄進したものと言われて い る。 吉水神社は,明治以前、吉水院と言われ、後醍醐天皇が吉野へ潜幸された際、行宮 となり、後醍醐天皇玉座の間がある。質素な暗い部屋だ。また、源義経が静御 前や 供のものと逃げ延びてきたのも、太閤秀吉の本陣となったのもここで、義経の 鎧、 古文書などの宝物がある。義経の鎧は意外と小さいのにびっくりする。小柄で あ ったのであろう。建築物に関する知識はないが初期書院造りの傑作といわれる そ うである。 京都に戻り数々の歴史舞台となったニ条城を拝観する。 ニ条城は慶長8年(1603)徳川家康が京都御所の守護と将軍ご上洛の際のご寝所を 目的として建設され、寛永3年(1626) 3代将軍家光が後水尾天皇を迎えるために 大改修を行い現在に至っている。国宝のニノ丸御殿は、部屋数3 3、畳は8 0 0畳? あまり敷かれ桃山文化を結集している。部屋では、慶応3年(1867)15代将軍慶喜 が大政奉還を発表したり、将軍が大名を謁見したりした大広間、城へ参上した控室、 上洛した大名が老中職と挨拶を交わした式台の部屋など数多くあり、今では人形を 配置し、説明を分かり易くしている。各部屋の襖絵も立派で狩野派の手により描か れ、欄間の彫刻、飾器具、長押に打たれた花熨斗形の釘隠しなどは金飾あざ やかに 豪華を極めている。庭園も特別名勝に指定されており、小堀遠州作の池泉回 遊式庭 園で、大広間から眺められるように造られている。庭園は、蓬莱島・鶴島・亀 島の3島を置き、4つの橋を架け、西北橋に滝を落とし、池の汀(なぎさ)に多くの岩石を配 し、 その景観は「素晴らしい」の一語に尽きる。 今度は趣の全く異なる竜安寺の石庭を。見に行く。幅2 Om、奥行き1Omの庭に 白砂を敷き詰め、箒の目立てで波を表し、15の岩が孤島を表しているきわめて 一 見シンプルだけれど奥の深いお庭である。 京から山科を通り、琵琶湖畔のお寺石山寺に行く。石山寺の本堂は国指定天然 記念 物の挂灰石の巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名となっており、西国3 3ヶ所観音 霊場第13番札所にとなっている。平安時代には、宮廷の女人たちの間で観音堂 に 参籠し読経しながら1夜を過ごすのが流行り、、伝承では、寛弘元年(1004)紫 式 部も参簧したそうで、その際、八月十五夜の名月の晩に源氏物語「須磨」「明 石」 の巻の構想が出来たといわれている。石山寺本堂には参籠した「紫式部の間」 が残 つている。 比敷山に登る。比敷山の中心は延暦寺で天台宗の総本山である。根本中堂が中 心で 90mに及ぶ回廊がある。標高848mの比歡山頂は、京都盆地を一望の下に眺めら れ実に景色が良い。織田信長が比數山を丸焼きにし、僧侶を皆殺しにしたなど は嘘 のような静けさだ。

ウ コンパ。

校内で集まってコンパを開いたり、大きな学校行事が終わった夜は戸塚1丁目の 交差点近くにある薔麦屋さんの2階などを使用してコンパを開いたりした。 コンパは友達の新たな面を発見できるし、コミュニケーションが豊かになり、 クラ スのまとまりが深まり、青春の発露であった。私はどこかでコンパの話を聞け ば喜 んで参加し「No」という返事はなく、付き合いが良く楽しく過ごしていた。

エ 演劇コンクール

「夕鶴」を演目とした。これは吉田史子さんの演出であったが、私は相変わらずパ レーボールに専念したのでコンパだけ参加した。

オ 運動会

運動会の想い出は、スウェーデンリレーに尽きる。
私たちのクラスは特に足の速い女性が揃っていた。佐藤澄江さん、実川明子 さんで 佐藤さんは1年生(後日イスラエルで学位をとられた)、実川さんは卒業までバレーボール部で2人と も運動神経抜群である。だから、だれもがスエーデンリレーは楽勝と思ってい た。
スエーデンリレーは女性各人が10 0 m、男性が2 0 Omと4 0 Om走る競技で ある。私は短距離型で10 Omを12秒台で走っていたが、4 0 Omは経験もな く、体力的にレース運びも分からなかったので200mを希望した。しかし、上田 昌佐君が200mを希望したので自信はあまりなかったけれども何とかなると思 い400mを受け持った。最初の女性ランナー2人は、断トツで凄いリードをし て上田君にパトンを渡し、上田君もトップで私にパトンを渡した。私は2 5 Om く らい順調に走ったが最後の1周は腿が上がらなくなってきたのを感じた。いわ ゆ る「浮いた」感じになってしまった。そこを毛利君に追い抜かれ2位になって しま った。
悔しいし、前の3走者には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 でも、このリレーで負けたことで、他のクラスでありながら毛利昌史君と友達 になった。彼は、東大の医学部に進学し、東大でもアメリカンフットポール部に属 し文武両道の優秀な青年でで、高校時代、まだ少ない米国留学をフルブライトで留 学し ていた。
私は防衛大学校の時代に毛利君の故郷の小樽に遊びに行き、数日間彼の家にお 世 話になったことがある。彼の家は小樽で有名な肛門病院だった。昼はオホーツ クの 海で泳ぎ、たまたま小樽港に停泊していた海上自衛隊の護衛艦に案内し、夜は ダン スを楽しんだ。彼を立派だと思ったのは友達が来ていても、朝1時間は自分の 部屋 に入って勉強することだった。頭が下がった。ビルマに赴任したときは彼が東 大病 院の上田内科に勤務しており、マラリアや赤痢の薬など調合していただき、非 常に 助かった。ビルマから帰国後、家人が胆石で胆嚢摘出手術が必要になり、たま たま 私の人事異動と入院がぶっかり、国家公務員共済組合の虎ノ門病院の部屋が確 保 できず相談したところ、同期の小堀鴎一郎君のいる東大病院の消化器外科を紹 介 してもらい、小堀君に執刀してもらった。お陰で妻はその後異常もなく健康に 過ご している。因みに小堀君は森鴎外の孫で、小堀杏奴さんの御子息である。 毛利君には本当にお世話になった。彼は大手病院の院長を歴任し、今、日本の 結核病研究の第1人者になっている。
フォークダンスと言えば、戸山高校は女生徒が100名以下と少ない学校なので 生徒会は有名女子高の生徒を招待しバンドを締めたセラー服姿の御茶の水女子高 生徒がファイアストームを囲んで戸山高校の男生徒と楽しんでいた。 私はあまりフオークダンスが好きでないので踊りの輪に入ることはなかったし その経緯は知らない。戸山高校の女生徒としては面白くなかったかもしれないが 、生徒会のアイデアとしては斬新であったと思う。
また、もう一っの特色は、中学校までは運動会の予行演習をさんざんやったが 、戸山高校はぶっつけ本番であり、予行がなくても整斉と運動会が行われたことで あ る。各人が何をなすべきか理解していたのであろう。

9 3年E組

ア 遠足

織家先生が担任である。 秋は上毛三山の一つ妙義山に行く。妙義山は群馬県の名山であり、白雲山(110 4m)、 金洞山(1081)、金鶏山(1105m)の3つの岩山の総称でいたるところに奇岩があ り、 ローソク岩、大砲岩、ユルギ岩、虚無僧岩といったユニークな名前が付けられ、鎖 場もあり、紅葉と相まって山そのものに変化があり登山していて楽しい。

10 高校四年生

ア 遠足

戸山高校では大学受験に失敗した浪人人生徒に対し、先生方の好意により午後から 空き教室を使って受験教育をやっていた。通称「補習科」と言っていた。また 、浪 人することは恥ずかしいことであるという意識は全くなかった。 補習科は予備校に高い月謝を払っていかなくて済み、教える先生も顔見知りだ し クラスメートも同級生まさしく高校4年生だった。 行事もさすがに運動会はないが、気分転換を狙いとして遠足まであり、奥多摩 の高水三山に行って楽しい遠足であった。高校4年生はこれまで一緒のクラスになっ たことのない同級生を新たに多く知ることができた。男性はクラブ活動の関係 で 大体知った顔ぶれだが、女性は話だけ聞いて知っていた熊谷多佳子さん、谷川 節子 さん、成沢允子さんと友達になった、熊谷さんは学習院大へ、谷川さんは 立教大へ、成沢さんは津田塾大へ進学していった。成沢さん、熊谷さんとは後 年座間でゴルフを一緒に楽しむことができたのも高校4年生がきっかけである。『タ コ』 だの「チカチヤン」だのファーストネームで呼称してしまうのは青春時代か らの 知己だからであろう。 成沢さん、熊谷さんとはその後も都内散策で一緒になり散策を楽しんでいる。 また、毎月の高校有志の会である「山ぼうし会」のメンバーには谷川さんや熊谷さん がいるが、打ち解けて話ができるのも高校4年生時代の昔からよく知っていると いうことかもしれない。思わぬところの旧友が高齢者となっても付き合いがあ る から不思議である。 しかし、高校4年生の勉強は学校へ行ったついでに時間があれば女子バレーボ ー ル部の指導をしたりしていたので、補習科は勉強に集中力のない生徒にはぬる ま 湯であったかもしれない。勉強に専念すべき自分の置かれている立場をわきま え ていなかったということである。 校内の廊下に貼り出される模擬試験の序列は一向上がらない。やはり勉強は本質的に好きでないよ う で、頭が悪いと思った。集中力に欠けた生活に伴い、挫折感が伴ってきたよう な気 がする。その後、1968年(1967年度)に都の都立高校への指導により、このユニークな予備校、補習科は廃止された。

イ 防衛大学校受験

自分の能力に見合うと言う学校への進学を先生方から助言されたが、自分は外国での勤務 志向が強く商社勤務か外交官に憧れていた、しかし私立大学は経済的に無理だった。
所が浪人中に希望校が不合格の場合を考えていた時、防衛大学校の英語教官に転出されて いた3年の担任の織家先生から「井田君、防衛大学校を受験してみないか」と誘 われた。織家先生は戦前、海軍兵学校で英語を教えていたこともあり、私に入学 を勧めて呉れたのかもしれない
バレーボール部で主将をやっていたので団体生活はできると考えたが、当時の 防衛大学校は創設したばかりだし自衛隊の将来も不透明で、先を読めなかっ たし、しかも思想的に私は左傾化していた。
しかし、そんなことは言ってはいられない。2年間も浪人できる身でないし 、ニ期校より未知の面白味があると思い、とりあえず行く先をを決めておく必要 があると判断し、東京の竹橋で受験した。
受験科目は8科目あり、勉強をしていない物理が不安であったが数学力で回 答することができ、試験が終わったとき合格と思ったが、回答は合っていても 、途中経過を書く答案用紙を汚い字で書きなぐったのが少し気になった
11月に合 格通知が届き、通称「ガンマ」こと柴田先生から補習科の授業の際「今年は 幸先いいよ」と言って紹介され、予想外に喜んでくれたので顔が熱くなった。
柴 田先生は、早稲田、慶応に進学しても褒めない先生だけに意外だった。昔の陸士 ・海兵に強い府立四中のイメージがあったのかもしれない。同期からはラグビー部の渡辺正君、 部活動にはノータッチの飯塚君が入校した。私と異なり彼等は航空自衛隊を希望した。
三人の卒業式には、戸山高の友人が祝ってくれ嬉しかった。
飯塚君は、戦闘機のパイロットを極め三十余年。私と同様に瑞宝小綬章を受賞している。

日本はこの昭和31年(1956)12月に、あの敗戦を克服し、国際連合に加入し、世界の一員となり国際社会へ飛び出す年でもあった:。

11卒業後

ア やあやあ会

昭和31年3月戸山高校卒業の同期会は毎年秋に「やあやあ会」という名称で 実施され、平成23年年で50年になる。卒業当初はクラス会主体であってが、 段々学年合同となり、今では3年F組やH組だけがクラス会を行っているが、 他のクラスは「やあやあ会」に吸収されている。 この「やあやあ会」ができたのは、私が練馬勤務時代の話で、私も多少かか わっている。
私の居住していた練馬駐屯地の近傍で、同じ練馬区に渡辺藤一君ご夫妻が住んで いた。渡辺君は夢のある絵を描き高校時代に岡本太郎画伯からその絵を激賞 された人で、奥様は児童作家の立原えりかさんである。 彼の家は跨いで入るおもちやのような門の入口でガリパーになった気分を彷 彿させ、そして室内も芸術家と児童作家のご夫妻が住むのに相応しい雰囲気で あった。十五夜を祝って月見の会を行うなど理由をつけて渡辺君宅に夜遅くま で 独身の私達はお邪魔して、えりか夫人から最近の子供は鉄砲の音は「バンバン」 でなく「バギューン」と表現しなければならないなど表現の変化を教えられた
メンバーは渡辺彦祐君、増田君しか思い出せない。女性は一人もいなかった ことは確かである。
大体が1年B組と2年G組主体で同期会をやろうということで 話がまとまり、お茶の水の喫茶店で開かれたのが最初だったと思う。発足当 時は 今日のように学年全体に広がるとは夢想だにしなかった。
最初は全クラスの発想がなかったゆえに、一部では何となく参加しにく くなる雰囲気もあったが、次第に薄れ、今は毎年、3年生のクラスが順番で幹事を 行い、 完全な31年卒のクラス会になっている。幸い60から80名の参加者がおり、 盛況である。これまで発展させたのは渡辺藤一君の功績である。
平成18年(2006)3月には卒業5 0周年ということで母校を会場にして実施し、 9 9名が参加した。また、50周年を記念に文集「てんこもりCD」を作成した。50周年には協力できなかったが「やあやあ会」は過去の経緯もあり、全面 的に協力している
私は「やあやあ会」の幹事当番は8年に1回担当することになり、、平成21年 (2009)は私たちのE組担当である。第1回は私の勤務していた健康保健組合 の大久保の中華レストランで顔合わせの会食、第2回は新宿御苑で散策しなが ら役割分担を決めるなどのんびりした日程で数回の打ち合わせの会合を開き、 私の役割は返信集の作成であったが,表紙をどのようなデザインにするか悩みの 種で、結局、幹事多数の意見で無難な返信集の表紙も決まり、2009年10月24日 (土)新宿中村屋の3階のレストラン「レガル」で57人の参加者を得て得て開催 し、成功裡に終了することができた。
やあやあ会の会場は主に平河町の松屋サロン、中村屋(建替えに伴い伊勢丹隣のクルーズ・クルーズ)と変遷している。

イ 山ぼうし会

山ぼうし会は、「やまぼうし」は木の名前で木になる実を採りに行って果 実酒を作ったことから「山ぼうし会」と命名し、平成11年に発足し、戸山高校の 同期有志が毎月第4金曜日に新宿要町の戸山高校城北クラブに集まって、飲み 、食 ベながら政治、経済、教育、国際関係などいろいろ語り合う会で、てこれま で得 たいろいろな人生経験から自分の考えを披露することになる。 例えばイラク問題、靖国問題、拉致問題、海底油田問題、教育問題、原子力 発電 問題、後期高齢者医療問題などである。 夜6時半頃から始まり9時半頃まで続くが、加齢とともに夜の遠距離移動は避 けたくなるが、若さを保つため可能な限り参加している。 メンパーは会全般を取り仕切り自動車に強い小平君、石油採掘に詳しい猪間君、南極観測や山登りの得意なお医者の箕岡君、切手や映画に強い甲斐君,日本 経済に強い三海君と天野君、観光に強い上田君、特殊車両に強い増田君、広報に 強い高瀬君、核問題に関心のある横川さん、英語にたけた藤本さん、教育問題に 強い守屋さん、添乗員を教育していた山崎さん、後藤田君、桜井君、山ロ君、横 山君、 多羅尾君、野ロ君、島崎さん、松尾さんなど多士済々で、皆、意見を持って いる ので面白い。

ウ 城北会

四中・戸山高校のOB会を一般に城北会と呼称している。この城北会総会は年に1 回 東京のホテルで開かれるが同期生、前後の学年も役員をやっているのも数人 に なってきており高齢化に伴い欠席している。 その他、千葉在住者の千葉城北会、陸軍士官学校及び陸上自衛隊の偕行社城 北会 があるが、千葉城北会は、同級生が役職をやっている関係から、最近のトピ ックの講話がある千葉城北会並びに先輩が幹事をやっている偕行社城北会に参加 し ている。千葉城北会では1年後輩のNTTの青木氏の今後のITと私たちの生活 にかかわる話は興味深く内容があった。やはり会合でも付加価値をつけねば な らない時代である。さもないと高齢化に伴い参加者が減少してしまう。 千葉に住んでいると、招待状のきた全ての会合に参加するのは難しくなって お り、取捨選択をせざるをえない。しかし、会合にも参加する意欲がなくなっ ては おしまいと極力思い腰を持ち上げている。

12 同級生たち

高校時代は、青春時代の始まり出会ったが、途中に氏名が出てきたものもあ った が、私にとっては結局バレーボールと勉強が生活の中心であり、一歩進んだ 恋などは夢のまた夢だった。負け惜しみかもしれないが、夢を心の中で膨らませ るだ けで充分だった。 同級生はいわゆる一流大学に進学し、それぞれの分野で活躍している。特に 大手 企業とりわけ商社、銀行、大学、医者になったものが多い。大部分の卒業生 が一 流大学を出ている者の集団だから、卒業後は学歴を全く感じさせずにお付き 合 いできる。同期生は学歴よりその後の人生観の方にお互いに興味を持ってい る。 先輩や同級生がいくら高い社会的地位にいようが自分は本質的に変わらない し、 自慢にもならない。大事なことは、先輩や同級生たちが、私に友達として彼 らの 体験を通じていろいろなアドパイスをしてくれたことであり、感謝するばか り である。 私にとって良い高校とは進学率も大切だが、勉強しやすい環境と良い友達を 持 てることに意義を見出している。社会的地位を得ようと勲章を貰おうと、そ れは 個人の満足度を高めるもので、他人にひけらかすものでないと考える。 私は、戸山高校の良い友人を持ったお陰でその後の人生でいろいろお世話に な ることが出来たことが最も幸せである。本当にどこで縁というものがつなが っているかわからない。人とのお付き合いを大切にしないとだめだ。 振り返れば担任の織家先生に防衛大学校の進学を勧められて以来、結婚式で は バレーボール仲間が披露宴の面倒を見てくれたし、ビルマ赴任に当たっては薬 の面倒及び家人が病気になった時の入院をしてくれた毛利君、ビルマのラング ーン生活を快適にしてくれた繁宮さん、娘の高校進学を心配してくれた守屋 さ ん、家人の手術をしてくれた小堀君、ビルマ帰国後のマンションの面倒を見て く れた三海君、再就職の斡旋をしてくれたS17年卒の斎尾先輩と同期の尾崎君、自宅の設計も尾崎君の世話になった。義父宅の売却に相談に乗ってくれた後輩の安藤弁護士など…戸 山 高校には足を向けて眠れない。

バレーボール部の仲間から紹介すると友達の筆頭は三海君である。三海君は一年生の時はハーフセンターで、あとはマネジャーをやってくれた。彼は卒業 式で 答辞を読み、東大でもバレーボール部で活躍し、東洋信託銀行東大1期生で入社 し、常務で退職している。目黒の雅叙園近くの自宅にも何回か遊びに行き大 鳥神 社のお祭りにもつれてってもらい、また、最後までTJKゴルフ場に付き合っ て くれて楽しく過ごした。特にビルマを帰国して熊本に赴任、家族の住む家が なく、 急遽マンションを購入せねばならない状況で困っていた時、銀行関連の不動 産 部を紹介していただき、マンションを購入し、金利ローンも無審査で組んで くれ 助かった。
3年間同じクラスだった酒井君(東京大)はバックレフトで学生時代からパ イオ リンを嗜み、学識豊かなスポーツマンであり、教えられることが多かった。 卒業 後も東大の本郷キャンパスで行われる5月祭に招待してくれたり、日本女子 大 との合コンを計画したり、観音崎、箱根、妙義山に行ったり、ダンスパーテ ィを 開いたりしてくれた。転勤が多く疎遠になってしまった。
横山君はパックライトで慶応大学卒業後は新和内航海運(株)に勤務してい たが、 平成20年(2008)に癌で逝去している。
同様に渡辺君はパックセンターで、教育大卒業後、日本石灰協会に勤務して いた が、渡辺藤一家に行った後、練馬駐屯地内の独身寮(BOQ)に共に帰り、 私の部屋で一泊することもあった。自衛隊も特別の申請許可を必要と せず、幹部随行で4営門をパスできた時代である。残念ながら平成の初めに逝去し たが、彼には裏がなく、「ヒコさん」と呼ばれ、いつも誰からも愛されてい た。
金子君はフォワードレフトで慶応大に行った。運動会の時は一緒にバレー ボ 一ル部として走りクラブ対抗で優勝をもたらすスプリンターであり、正義 感 の強い人だった。体操の伊原先生とトラブルが起こりそうになった時慌てて 引き留めたことがある。彼は決して激情型でなく、むしろおとなしい方だが 、何か心の内で正義感に触れたのであろう。卒業後、慶応大学で経済学を教え、 慶応志木高校の校長や会計検査院の院長として活躍し、政府の委員をやり、公認 会計士、監査審査会会長の要職に就き勲章を貰っている。
中込君はハーフライトで慶応大に進学した。卒業後は電気関係の企業の役員 と して勤務している。 一応、バレ一ボール部関係は終了して在校中ほ同じクラスにならなかったひ と を紹介しよう。

尾崎君は東大卒業後、1級建築士として建築事務所を開設している。酒々井 の我が家は彼の設計事務所の設計である。非常に温厚で静かな方だがやるべきこ と は必ずやってくれる信頼できる人物である。 また、彼の縁で昭和17年卒の斎尾さんを紹介いただき、再就職先(株)日本 ナレツジインダストリーを紹介していただいている。尾崎君とは遊びの仲間と い うよりも、いろいろお世話ばかりかけている友人である。

テニス部の野ロ君は慶応大を卒業し、野村證券に勤務し朝日海上火災保険の 社長に就任している。家が学芸大学付属高校前にあり、彼の家へ遊びにいたら 、お母様が、美味しい夕食を作ってくれ、妹さんが彼のことを「お兄様」と「様 」を つけて呼び、これから某大使館のパーティに行くのだと挨拶に出てきた。駒 場高 校在学中のとても可愛らしいお嬢さんだったが、野ロ家は我が家の雰囲気と は 大分違うと思った。その内お父さんが出てきていろいろな話をしてくれた。 お父さんはロンドン銀行にお勤めされていて、その経験から2ケ国語以上語学が で きないと駄目な話とか限られた時間内で仕事を完成しなければならず、、受 験も 限られた時間内で勉強し合格しなければならないと教えてくれた。私は父と こ のような真面目な話をしたことがなかったので新鮮だった。

上岡君は1年と2年と同じクラスでカメラと株を趣味とする気さくな友達だ。 早稲田大を卒業後、山一証券に入社し、趣味が仕事につながった1人である 。 山一証券が廃業になる前に投資顧問として独立して株投資を業務としていた。 若い時代には彼の投資アドバイスを参考にさせてもらった。彼はオートパイ を 持っていて、山手通りを暴走族気分で後ろにつかまって乗ったことがある。 風を 切って走ることはなかなか気持ちが良い。このオートパイ搭乗は最初で最後の体験で ある。

渡辺正君は通称「正坊」である。クラスは一緒になったことはない。彼はラ グビ一部のキャプテンをやっていたし、防衛大学校同期であった。彼は比較的早 く航空自衛隊を退官し、伊丹勤務時代は良く泊りがけで遊びに来ていた。長女は 西武球場のライブで若い人に人気のある「渡辺美里さん」さんである。高校時代から TV番組「歌謡歌合戦」で象さんチームとかで歌っていた。  ♪My Revolution♪ でヒツト曲を出したが、♪My tear mydram 今ぁすぐぅ・・・・♪ 等、私には上手に歌えない音程の曲である。

松山君は早稲田大を卒業後、旭エンジニアリングで勤務し、育ちの良い雰囲気 を醸し出す青年で、背丈も同じくらいなので、教室で私のそばに座っていた。 1年生の時、成城学園に住む彼から誕生日パーティーに招待された。招待さ れたのは私と原さんだつた。私の家は誕生日パーティ一の習慣がなく、招待された のは初めてでお祝いを持っていくことに気がつかなかった。招待に応ずることが 大切,だと考えていたので、今もって良かったのかわからない。彼は机のそ ばに来てよく話をしていたので招待してくれたのであろう。品の良いお母様が出 てきて、お母様の作ってくれたお食事を美味しくいただいた。 原さんは小田急線豪徳寺に住み、私にとっても沿線・通学路友達の一人であ ったが、その美しさは上級生にも伝わり、休憩時間に教室に視きに来るくらい だった。 松山君は私には高嶺の花である美人の彼女を家に招待して誕生日パーティー ができるなんて羨ましいと思ったが、同席させてもらっただけでも感謝すべき だと思った。後年、子供が小学校に行くようになって誕生日パーティーも普及 したが、当時は誕生日パーティーなど聞いたことがなく、この誕生日パーティー の参加は最初で最後の良い経験と思い出であり、私の生活環境変われば行うこと も変わるものだと思った。 彼女は東京女子大卒業後同窓の1年先輩と結婚した。

繁宮さんは津田塾大卒で、英語が堪能で飾り気がなく良く笑う生徒だった。 彼女は気楽に話ができるので緊張感がなかった。後年、英語-ビルマ語が堪能な ので商社ニチメンの奥様としてビルマに赴任して活躍されており、私がビルマ勤 務時代の不慣れな私達家族の面倒を見てもらうとともに麻雀、プリッジで遊び 、ご主人とはゴルフ仲間で暇さえあれば遊びに行き1週間合わない週はなかった。 私が帰国後、ご主人が脳梗塞で倒れ日本で手術は受けられず止むを得ずバン コ クで手術したが失敗し、植物人間状態になってしまい元気な時を知っている だけにお見舞いに行くのもつらく1回お伺いしただけで義理を欠いている。ご 主 人は平成19年(2007)に不帰の人となっている。

守屋さんは学芸大卒業後、中学校の教員をやり、長女郁子がミャンマーから 帰国した際に希望する都立高校に受験できるようにお願いし、戸山高校に受験で きるように手配していただいた。彼女にはお手数をかけてしまったが、戸山高 校受験前に国立の学芸大付属高校に合格してしまったので戸山高校受験は取りや めになってしまったが、娘の高校に労をいとわず活動してくれた。 彼女は谷川さんとYOMO出版を立ち上げ、カールブルックナーの「サダコ」を翻訳し、自らも 「 Do you know SADAKO? 」を著し、被爆問題に取り組んでいる。その後、山ぼ うし会で一緒に語り合う仲間になって、毎月、顔合わせることになった。彼 女は 大腸がんを患い、大腸がん経験者の私は「必ず治る」と激励したけれど平成19年 (2007)に不帰の人となった。

吉田さんは私と同じ沿線の小田急線代々木上原に住んでいる。彼女はいつもニ コ ニコしていて、怒ったことを見たことがない。話をしていると人に対する優 しさがいつも出ていてほのぼのとし、何となく意気消沈していると励ましてくれ 、い つも明るい気にさせる女性だった。だから彼女のフアンは多かった。 彼女は絵を描くことが好きだが演劇関係にも関心があった。しかし、3年生 の終わりに突然身体を壌し自宅にお見舞いに行ったときは床についていた。 彼女は常に戦争や軍備に対する疑問を抱いている女性だが今でも純粋な気持 ちは変わっていない。無理はきかないが、健康を回復し教育大芸術学部構造科 (デザイン)に進学し、芸術分野で活躍することができた。その後もアサヒ広告 写真 賞を受賞ししたり、絵を描いたりしている。また、平成15年(2003)には 地球温暖化を想起させる子供の絵本と挿絵「ふたつのたいよう」を表してい る。 その後、同級生の井野君と結婚している。平成9年(1997)に彼女から展覧会 の案内状、平成18年(2006)6月に猪間君から吉田さんが表参道で個展を開いてい る ので観に行ったらと勧められ早、早速、表参道のギャラリーに出かけた。ご 主人 の井野君と史子さんがおられ野ロ豊君も観に来ていた。彼女に会うと健康の こ とがすぐ浮かび、「いつまでも健康で!」と言って辞した。

銭場さんは女子バレーボール部のキャプテンで価値観を共有できる人で、面 倒 見の良い女性で、バレーボール部の運営そのものに悩みを聞いてくれたり助 言 してくれたりした。3年生の時、同じクラスになったが才女で、その達筆に は感 心させられた。

13 追加:中学時代

都立戸山入学前の中学時代の記録である。