*都立戸山高校・1956(昭31)年卒業生の資料 画面右の×印で閉じます。   昭和31年卒のページにはここから Count = 42

昔も今も 牛込馬場下
      早稲田に生まれて、育って八十年

平成14(2002)年8月に思い立って、自分史?の小冊子を取りまとめました、六十五歳でした。
更に平成20年(2008)年2月に改定いたしました、七十歳でした。
そして今平成30(2018)年に、紙の冊子をウエブで公開することを担当に依頼しました。八十歳です。なお写真はこちらです。
                    3B 栗林 昌輝 

目次と概要

小倉屋酒店沿革と江戸の歴史、早稲田の歴史

店の歴史と家宝の「酒枡」+江戸のまち

わたしが受け継いだ小倉屋(こくらや)酒店は、約350年の歴史があります。
即ち、初代小倉屋半右衛門は九州小倉の人で延宝年間(1670年頃)に酒屋を当地「馬場下」にひらき小倉屋(こくらや)と名付けました、これが現在の小倉屋の起源です。私の祖父は、本来は十四代半右衛門なのですが「静助」と名乗り、父も「鶴吉」と名乗りました。遡って、三代将軍家光の1636年、馬術練習場として「高田馬場」が造られ、当地は「高田馬場」の坂下だから馬場下町と言われたわけで、主題の『馬場下』ができました。
小倉屋の長い歴史を物語る「家宝」に、『堀部安兵衛が使った酒枡=ます』があります。
現代の若者には、「堀部安兵衛と高田馬場の血闘」って何だ!かと思いますが、堀部安兵衛は、五代将軍綱吉の治世をゆるがした大事件=浅野内匠頭の江戸城中刃傷事件と切腹=赤穂浪士四十七人の復讐(討入)事件=脚色されて『仮名手本忠臣蔵=忠臣蔵』、に参加した剣術の達人です。彼の腕前を語る逸話として、堀部安兵衛が討入事件の約七年以前の元禄7年2月11日(1694年3月6日) 、彼の知人が、高田馬場で果し合いをすることを知り、助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した(江戸市中の瓦版では「18人斬り」と数を増して高田馬場の決闘とした)、それが縁で無職浪人安兵衛(26才)が播州五万三千石の赤穂藩に召し抱えられ職を得たのです。その高田馬場の決闘におもむく途上で、小倉屋に立ち寄り、枡酒を飲んで喉の渇きを癒し勝利した、その時の枡が小倉屋に『家宝』として伝わっているわけで、これは、二代目半右衛門の時代の話です。

昭和の時代にも、昭和19年、早稲田大学相撲部の学生さんが学徒出陣で出征する際に安兵衛の酒枡で武運長久をいのっていかれました。戦後、早稲田に戻ってきた人は何人もいませんでしたが。

いわゆる『忠臣蔵』は事件後半世紀たって大阪竹本座で「人形浄瑠璃・仮名手本忠臣蔵(幕府に遠慮し話を足利時代とし)」として初演され直ちに歌舞伎に翻案され江戸・京都・大阪で大評判となり、明治大正昭和平成の時代にも講談・浪曲・映画・テレビ大河ドラマになっています。
・・・・・同期野口武彦さんの著書花の忠臣蔵によれば「忠臣蔵のテーマは永く日本人の心に琴線に触れてきた・・素朴な正義感、不正を許さない勧善懲悪主義、しなければならないことやりとげる責任感、その信念を貫きとおすプライド、艱難辛苦に耐える辛抱心など多くのプラス感情の源泉であった・・・としています。
お蔭さまで、小倉屋所蔵の「安兵衛の酒枡」は、平成の時代でも頻繁にテレビに登場して参りました。

この様なことから、早稲田の歴史、更には江戸の歴史に興味と持ち調べご報告します。
詳しくはこちら

お世話になったご近所の人たち
    銃後の子供たち

小学校(国民学校)入学まえから、集団疎開まで

自分がもの心ついた時は、戦時企業統制令との法律があり酒屋を廃業していました。父は店を閉めたのち、酒類配給公団が職場でした。
戦争が始まって、最初のうちはシンガポールが陥落した時は花電車がでたり花火が揚がったり早大正門通りから提灯行列が出るのを見に行ったりしました。
ところが昭和17年4月18日の昼過ぎにアメリカのB25による爆撃がありました。早稲田中学の構内に65発の焼夷弾が落とされ、体育授業中の小島茂さん(4年生)が亡くなりました。
昭和19年の4月に早稲田国民学校に入学しました。制服はスフでした。
しかし、6月に国民学校初等科の上級生は「学童疎開」をすることになり、学校は3年生以上がほとんどいない寂しいものになりました。
昭和20年になると空襲は激しくなりました。3月10日の夜中、寝ているところを母に起こされ、防空頭巾をかぶり、水筒と小さなリュックをもって「穴八幡さま」の下にほられた防空壕に避難しました。いつもと異なり何時間も「警報解除」になりません。明け方、ようやく家に帰ることになりました。外に出ると東の空が真っ赤でした。「東京大空襲」でした。この夜、浅草、本所、深川、城東、日本橋、下谷区の殆どが全滅、30万戸近くの家が焼かれ8万人以上が亡くなりました。
もう東京に子供を置いておけないと、「根こそぎ学童疎開」ご行われ、自分も栃木県河内郡上三川町の普門寺に、集団疎開しました。
終戦後の10月に早稲田に戻ることは出来たけれど、三階建でタイル張りの家も、5月25日の空襲で焼けてしまい。住むことはありませんでした。
詳しくはこちら

父と私

火傷をしながら家族を守った父

現存する、小倉屋の写真には、栗林静助(十三代 祖父)鶴吉(十四代 父)が写っています。父と、出かけるときは13番の都電、江戸川橋まで歩いていって乗って、豊島園とか読売遊園地に行った記憶があります。
戦争が激しくなると、父の年齢の人たちも招集されて軍隊に行く人が増え始めました。父の友人の「三朝庵」の小父さんも幟や軍歌に送られて入隊して行きました。「俺とおなじ第二乙なのに」と父と母が夜、話をしているのを聞いた記憶があります。
昭和20年5月の空襲で家が焼けた日、父は消火のための警防団を指揮していて逃げそこなったそうです。身体のあちこちにドブの泥をぬり、逃げ回りやった助かったそうで、顔に軽い火傷をおいました。8月のはじめ集団疎開の寮に「もうここまできたら、日本中どこにいても同じだから、親子一緒にいたほうがいい」と迎えにきてくれた時は、未だ火傷のあとがありました。
その後、平和になったとはいえ、戦後の混乱のなかで家族六人、一面焼け野原の中からの再出発は大変だったろうと思います。いい年輩の父だったを考えがちですが、数えてみると、まだ四十前です。日本国中がみんなそうだったといえば、それまでですが、本当によく頑張ってくれたものです。
詳しくはこちら

母 栗林 晴(はる)のこと

繕いものは夜なべ仕事で、手ぬぐいを被り夜遅くまで。

母、栗林 晴(はる)は、明治39年8月に、東京都淀橋区戸塚町で出生、戸塚第一尋常小学校から後に開校した戸塚第二尋常小学校に移り、第一回卒業生であったと聞いています。高等科に進んだ頃、姪ごさんが女学校に進学するのを知り、親に泣いて頼んで自分も一緒に岩佐高等女学校(現在の佼成学園・当時は牛込榎町所在)に入学し、二人で毎日戸塚から榎町まで歩いて通った、途中に小倉屋が有った、とのことです。
卒業後、昭和4年4月に、縁あって、栗林鶴吉と結婚、小倉屋の嫁となりました。
あの頃の親達は、みなそうだったでしょう。たまの休みの日、戸塚の実家に子供を連れて訪ねるのが母のただ一つの楽しみだったようです。「往きは穴八幡様から左に曲がって、お諏訪さま、玄国寺の前を通って」池田の家まで歩いていくのが常でした。
戦争が末期となった昭和20年の7月初めに、集団疎開さきの普門寺まで、母が健二を背負って面会に来てくれました。何も知らない健二はお寺の中を裸で飛び回ってキャキャと喜んでいます。母は「面会にくるのは大変なことなの、切符は手に入らない、汽車は空襲で何度もとまる。その上、一食につき、米2合と食費を寮に払わねばならないので、皆さん来たくてもなかなかこれないのよ」と母は言い、栄養失調とブユに咬まれてできた僕のオデキを心配しながら、また健二を背負って帰っていきました。
昭和22年新春にもとの馬場下町に家を建て、25年に酒屋を再開することとしました。当時、酒類小売販売免許申請書を作るのは大変な作業なのに、母はひとりでこれを全部、毛筆で浄書したようです。店を再開後、昭和32年に父が脳溢血で倒れたころ、家の台所は火の車でした。店の再建が軌道にのったのは昭和40年代で、私が玲子と結婚した41年には店の経営もまだまだ大変なころでした。
店をビルに改築できて二年後の昭和50年に父を送りました。母も町の老人クラブや業界の旅行に出かけられるようになり、喜んででかけていたようです。
晩年、長野の善光寺に行きたいと、いいましたので、志賀高原、万座温泉を廻ったのが、私との最後の旅行になりました。この時は、善光寺本堂の急な階段を上れず、下でお参りしました。でも、参道のお店で数珠を買ったり、お蕎麦を頂いたりして、とても元気でした。
その後、様子がおかしいと、主治医の先生のご紹介で国際医療センターに入院、癌と判明し、僅か二週間の入院で亡くなりました。平成三年一月四日、十五才のときから通い慣れた、「穴八幡様から左におれて、お諏訪さま、玄国寺の前を通り」池田本家や自分の生家に別れをつげ、落合の斎場から旅立ってまいりました。
詳しくはこちら

焼け跡考古学

戦争が終わって、いろいろな町・人に出会いました

昭和二十年八月十五日に戦争が終わりました。
自分は、学校が無いので再度と栃木・普門寺の集団疎開さきに戻りました。
十月に、みんな一緒に東京に帰りました、東京は食べ物が無くて大変だろうと土地の人たちが、みんなに米一升とサツマイモをもたしてくれました。我々の疎開先の上三川町は、食料生産地であり恵まれていました。戸塚第一第二の行った草津温泉やら世田谷区の学童達の浅間温泉などは、火山灰地で地元の食料も賄えない所に疎開し、食料泥棒など大変だったようです。
「林檎の歌」と「カムカムエブリボディ」がラジオから流れていました。
家が戦災にあった児童には特配があり、鮫皮製のランドセルをもらいました。
四年生になったとき「国のはじめ」が配られ、製本された初めての教科書でした。
オドール監督の率いる「サンフランシスコ・シールズ」がやってきました。
学年が進むとスコットホールの日曜学校にも行きました。
中学生になると神田美土代町のYMCAの英語学校に行くようになりました。
神田の本屋、東京堂とか三省堂にも行きました。
当時は、「見知らぬ人とお話してはいけません」などと言われませんでした。親が叱言を言うことは少なく、「今日は遅くまで遊んでいるネ、勉強はしているかネ」と訊ねるのはご近所の人でした。
詳しくはこちら

高校入学から東西線が出来るまで

戸山高校入学、ラグビー部入部、六○年安保、女子学生亡国論の時代です

戸山高校入学
クラブ活動紹介、ラグビー部入部
対荏原高校雪中戦6:0勝利
二年生で関東大会出場
受験で藤森栄蔵先生の数学塾に通う
秩父宮ラグビー場の芝の感触、都内高校選抜紅白戦
早稲田高等学院は石神井に移動、文学部+女子学生が戸山キャンパスに
六五年の「学費値上げ反対闘争」で「機動隊」と「デモ隊」、商店街は大迷惑
東京五輪をひかえ、地下鉄東西線が「高田馬場」「九段下」間開通

詳しくはこちら

西穂高に逝った人たち、山の仲間たち   西穂高岳アクシデントの前後

同級生3人と友人が冬の西穂高で遭難しました

戸山高校でラグビー部に入部し、練習の無い日は山岳部のトレーニングに参加しました。山岳班で最初の山行は大菩薩峠でした、素晴らしい展望でした。
冬には「輪かんじき」なるものを履いて川苔山に登りました。
その後、山岳部のメンバーは乗鞍岳・谷川岳・西丹沢・夏山の上高地・涸れ沢・北尾根・ジャンダルム飛騨尾根・滝谷第四尾根などに登りました
11月の初め「明神岳の東稜をやる、偵察を兼ねて荷揚げをする」と誘われましたが、断わりました。偵察の結果「東稜は無理だから西穂に変更」とのことでした。

12月15日の期末試験終了後四人の西穂への出発を見送りました。
二十四日終業式の夕方、遭難の知らせが入り、対策本部が設置され、救援活動と資金カンパが呼びかけられました。
現地で二名の遺体発見、お二人のみ荼毘に付して帰京となりました。 翌年4月から、毎月捜索隊が出動し、7月になりOBと学友により二人を発見、玄文沢で荼毘にふされました。
そこには銅板の慰霊碑があり、言わば僕らの青春のピラミッドと成っています。
詳しくはこちら

山の仲間たち 続き

昭和41年に結婚して間もない私のアパートに山岳部後輩が来て。

戸山山岳部と復縁
西穂高十七年忌に四十人
子供を連れてのスキーやキャンプ
室堂から五色ヶ原の夏山縦走
1994年四名でスイスアルプスでスキーを
スキーでイタリアとスイスの国境を越える
1996年三名でツェルマット他
ル・クロッションでローヌのピノ・ノワール2本
グリンデルワルトで宿をとりアルプスを楽しみました。
詳しくはこちら

「小さな旅」・・・・・甘利千枝子 ホームページより転載

1999年にNHK「小さな旅」で放送された甘利千枝子さんの作品です。

私どもの姉 大久保敏子(栗林)と一緒に栃木県上三川町に集団疎開された方で、昭和20年当時に戸山町にお住まいでした。
集団疎開先のお寺の普門寺を尋ねるおはなしです。 こちらにあります。

表紙・裏表紙


詳しくはこちら