「中村屋本店3Fレガル」 Regalとは、フランス語で「ごちそう」を意味するとのこと。中村屋伝統のカリーと共にフレンチも提供しているのだそうです。 戻るページトップ
「やあやあ会返信集」 例年のように「返信ハガキを集約した返信集」を作りました。今回は特に、ご出席頂けなかった方でも、返信を頂いたかたにはお送りすることとしました。(御出席者名等は専用ページにあります) 戻るページトップ
恩師七名様へのご挨拶 古希やあやあ会の打ち上げ後、11月2日に、直接お世話になった恩師七名様に、左記のご挨拶状と記念のフレーム切手をお送りしました。恩師の方々は83~4歳と存じますが、お元気のご様子にて、着信早々全先生より、電話やお手紙でご返事を頂戴しました。今回の「小さな切手」から、思いがけない喜びや、戸山の記憶が立ち昇って懐かしさいっぱいのご様子でした。ありがたいことでございます。
余談:「純インド式カリー発売80周年」 我々の「古希=70歳」記念の会場が「新宿中村屋の純インド式カリー発売80周年」と重なって いたのは奇遇です。 さらに、我らが戸山(四中)は創立120余年であり、 70年・80年・120年と「過去の歴史」が身近に感じられました。 戻るページトップ
余談:「中村屋のカリーの話し」 そして、今から80年前ののカリー発売の経緯にはドラマがあるようです。 中村屋の創立者相馬愛蔵氏は後の早稲田大学出身、奥さんの黒光さんも後のフェリス出身の英語を学んだ知的な女性で、多くの文化人が中村家に出入りし先端的サロンを成していた。 1915年に英国植民地インドで独立運動に奔走した「ビハリ・ボース氏」が日露戦争に勝利した日本に来日、種々あって(註)相馬夫妻の家にかくまわれた。1918年相馬夫妻は長女俊子を嫁がせ二児をもうけた(後日長男は沖縄で戦死)、1921年の日英同盟破棄の後ボース氏は日本に帰化、1945年に死去した。そのボース氏が1927年の「日本初めての純印度式カリー」を名物料理とする中村屋喫茶部開設に尽力したとのことです。(註)サマセット・モームの「ASHENDEN」にインド活動家追跡の話しがありますね。 戻るページトップ
余談:「会場に飾られていた少女像の話し」 会場の少女像は、上記のビハリ・ボース氏と結婚した、相馬愛蔵・黒光夫妻の長女「俊子」がモデルです。画家「中村つね」の作品で大正4年文展三等賞に入賞した作品の模写です。 戻るページトップ
余談:「中村つね」の自画像 同じく、画家「中村つね」の自画像の模写(本物はブリジストン美術館)が「レガル」にあります。 中村つね、は 明治20(1887)年~大正13(1924)年の大正期の画家。 陸軍中央幼年学校に進学し陸軍軍人の道を進んでいた17歳(現代なら高校生)の時に肺結核と診断され転進、画家とし代表作「エロシェンコ像(重要文化財)」などを残しています。中村屋の相馬愛三・黒光夫妻に支援されました。その長女俊子への恋慕かなわず早世したとのことです。 これ等の時代、もしかして我々の親達の青春と重なるやもと思いました、余談お許しを。 戻るページトップ
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