同期ホームページの終活として「データの固定保存+希望者への配布」を計画していますが、配布方法を検討するために『ヤマボウシ会』を、新宿三丁目要町(カナメチョウ)の『パイラスクラブ』に訪ねました。
結論として、『ヤマボウシ会』と『パイラスクラブ』にご協力をお願いする、対面手渡しによる配布は、郵送より優れており、今後ご相談を進めたく感じました。
『ヤマホウシ・山法師』会については、3E・井田武宣さんの『戸山高と私(I did it my way)』に下記の記述があります。
山法師会は、、昔その会のメンバーが、「ヤマホウシ(山法師)」と言う樹木の果実で果実酒を作ったことから「山ぼうし会」と命名したもので、平成11年に発足し、戸山高校の同期有志が、毎月の第4金曜日に新宿要町の『戸山高校城北クラブ(パイラスクラブ)』に集まって飲み、食べながら政治、経済、教育、国際関係などいろいろ語りあうかいで、これまで得たいろいろな人生経験から自分の考えを披露することになる。歴史的なメンバーとして、小平君・猪間君・箕岡君・甲斐君・三海君・天野君・上田君・増田君・高瀬君・横川さん・藤本さん・守屋さん・山崎さん・後藤田君・桜井君・山口君・横山君・多羅尾君・野口君・島崎さん・松尾さん、+井田など多士済済で、皆意見を持っているので面白い。
とのことで、最近も、毎月第四金曜日の午後2時から5時ころまでの会合を開いておられる様子です。一方『城北パイラスクラブ』は、城北会レベルの組織で、城北会誌.第71号令和5年(2023年)に、『石川正久・城北パイラス会長を偲んで』との記事があり、同時に城北会千葉支部・会誌第8号(平成23(2011)年11月)に、御自分の口述記『思えば”アグレッシブ”に生きてきたものだ』があり、二つを要約すると、下のごとくになります。
「城北パイラスクラブ」は、石川正久氏が新宿三丁目に所有するFBビルの4階スペースにある「交流スペース」である。
そもそも、石川正久氏(2023年3月21日御逝去)は、昭和8年に東京渋谷区の生まれで、昭和15年に渋谷区立山谷小学校に入学し、その後、軍人のご父君の転勤のため、一家で旧満州に渡る事になり、小学2年で新京(現在の長春)の西広場小学校に編入し、そこで、開戦となった。『臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。本8日未明、帝国陸海軍は西太平洋において米国及び英国と戦闘状態に入れり・・・・・』との放送を鮮明に覚えている。
戦況思わしくなく、日本人は、日本本土への引揚げを試みたが、既に時遅く、撫順炭鉱地区で敗戦を迎えた。父親は軍務で離れており、家族を養うため、12才だが炭鉱のコークス拾いやら、タバコの行商などで、1歳年上の兄と共に一家を支えた。
昭和21年7月にやっと日本本土に引揚げることが出来父親と再会した。13歳中学1年に相当する年齢だった。
父親の母校の縁もあり、編入試験をうけ、昭和21(1946)年9月から平田巧校長の『旧制都立第四中学校(五年制)の一年生』に編入、一学年5クラス=甲乙丙丁戊の250人であった。翌昭和22(1947)年学制改革により新制中学が発足し、都立第四中学校併設中学校の2年生となった、1年生は募集しなかったので、四中(パイ中)に入学した、最後(ラスト)の生徒となった(これが、後日パイラス会を立ち上げた所以である)。昭23(1948)年に中3(この年に学制変更、都立第四新制高校・新校章で発足)、昭24年高1(一学年8クラスABCDEFGH400名に拡充で150人を追加)、昭25年高2、昭26年高3、昭27年3月卒業した。
一家は、帰国当時、新宿三丁目の今の「パイラス」のある場所の焼け跡(=戦災による焼失地)にバラック小屋を建てて住まい、父親が印刷用紙のブローカーを始めたが上手く行かず困っていた。
その時、母親が昔馴染みの八百屋が、周辺に接客業が多いことから、その場所で水菓子屋(=贈答用の果物店)を勧めた、昔馴染みの八百屋が3輪トラックで神田の青果市場まで仕入れに行って、石川家分も含めて千駄ヶ谷の自分の店まで運ぶ。そこに兄と二人で、古いリヤカーを曳いて行って、石川家分のリンゴやミカンを積んで持ち帰り、「パイラス」の場所の、戸板にならべて販売した。
これが果物店のそもそもの始まりだった。周辺が接客の商売で賑やかだったこともあり、果実店は繁盛し、商売として定着した。母親の「双葉から始めた」との想いで「フタバ果実店」と命名した。現在のFBビルの名前は、そこから来ている。
兄(石川忠久・元二松学舎大学・学長・瑞宝中綬章)は、四中から東大に進学し中国文学を専門としたが、自分としては、大学進学は選ばなかった(親を養わなければ成らなかった、同級生には、俺が受験しなかったから、お前が合格したのだろう、と冗談に言っている)。
その後、「フタバ果実店」は、米国カリフォルニアから「進物洋菓子ショートケーキ用のいちご」やら「接客バーの飲み物(ジントニックなど)用のレモン」の輸入を手掛け大成功し、「㈱ジャパンフレーズ」となった。
「フレーズ」はフランス語の「フレッセ(苺)」を英語読みにしたものである。
石川氏は、戸山高校卒業時に「クラス別の会合ではなく、学年大の会合を作ろう!名前は『旧制四中(パイ中)が生徒を募集した最後の学年だから、パイラス(π+Last)会としよう!』と主張し実現した。同時に、パイラスのメンバーが何時でも集まれる場所を提供する為に、新宿三丁目要町の住居をビル(FBビル)に改造しその四階を集会所とした。これがパイラスクラブの起りである。
その後、パイラス会は、石川氏の人徳もあって、各種の同好会、ゴルフ、囲碁、俳句(季楽句会)、小唄などが発生し、更に海外旅行で、同期の大使をその赴任地(スイス及びエジプト)に訪問やら、城北会合同での100名をこす中国での三峡クルーズ、などを行った。・・・下掲の口述筆記より直近の山法師会(20250228) |
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パイラスクラブ掲示物 |
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パイラス利用法(城北会誌70,71号) |
石川正久氏口述筆記(千葉城北会誌) |