関連する写真を示します。 |
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「栗林さんコメント」
やあやあ会の皆さん、ご無沙汰しています。私も元気にやっています。孫に言わせると「オジイちゃんは昔から、オジイちゃんをやっているのだ」とのことですが、最近卒業25周年記念会合の資料を見て(←)若かった時代があったことを再確認しました(笑)。
古い写真でお手元にはない方もおられるかと、往時の写真集をやあやあ会に届けました。
このホームページで、
いろいろ皆さんと共有出来たらと思います。
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「卒業25周年やあやあ会の写真」
発見した資料の一部をご覧にいれます。皆さんお若いですね。その他の写真は、同級生専用ページ(ID・パスワード要)でご紹介しています。
それはそれとして、安兵衛関係資料をご覧にいれましょう。
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「個人文集・昔も今も牛込馬場下」
新聞記事にあったように、代々の店「小倉屋=こくらや」は徳川時代からの歴史があります。早稲田大学・戸山高校よりも我が店の方が古いのですよ(笑い)数年前に、このあたりを『個人文集・昔も今も牛込馬場下』としました(目次)。
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「江戸時代の小倉屋」
小倉屋の初代は延宝六年(1678)の江戸に店を開きました。江戸開府後75年、第四代家綱公の時で、大衆芸能として市川団十郎・坂田藤十郎の歌舞伎が始まり、第五代将軍綱吉公と元禄時代に続く活気溢れた時代だったようです。(シェークスピアの活動もエリザベス一世の盛時でしたね)
小倉屋二代目半右衛門
の元禄七年(1694)に、「忠臣蔵・四十七士」の一人として知られる堀部安兵衛(当時は中山新五郎)が小倉屋で酒を呑み、その後江戸中で評判となる「高田馬場の決闘」の助太刀に赴きました。そのときの「ます」が家宝として残っています(先日の新聞記事です)。
「江戸の歴史・早稲田の歴史(PDF:3MB)」
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「安兵衛の枡(ます)」
当時、安兵衛(中山新五郎)は浪人中で、剣術師範で生計を立てていましたが決闘・助太刀での腕前の評判から赤穂浅野家家臣・堀部弥兵衛の養子(リクルート?)となり中山姓から堀部姓になったとのことです。
「忠臣蔵」で知られる「赤穂浪士の仇討ち」は元禄15年(1702)ですから、この枡が使われてから8年くらい後です。安兵衛は能力のある人のようで召抱えられてから江戸留守居役などとして重用され、松の廊下の刃傷の後江戸での中心人物だったようです。
なお、写真は「五合の江戸枡」です。
幕府は、織田・豊臣時代の「ます=京ます」に替わり「新しい寸法のます」を制定し江戸と京都に「枡座」を置いて統制したそうです、明治以降も使われました。「五合=約900ミリリットル」です。
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「昭和4年ころの小倉屋」
幕末になると、小倉屋は繁栄し、当主が御家人株を手に入れ剣術を修行した記録があります。明治から大正での小倉屋は敷地約500平方メートルの大店で郵便局も兼営していました。
「小倉屋の沿革PDF:1MB」
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「義士・堀部安兵衛顕彰碑」
往時の当主は、堀部安兵衛の事跡を後世に残すことに熱心で、顕彰碑を建てたり安兵衛の肖像を模写するなど、活動したようです。
写真は「幟(義士堀部安兵衛顕彰)」を立てた車に顕彰碑を乗せ、牛に曳かせて水稲荷神社境内まで運んだ時のものです(真ん中に居る牛が見えますか?)。
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「吟醸酒・堀部安兵衛」
私の代には、吟醸酒「高田馬場 堀部安兵衛」を商品として作りました。何か事跡よりも商品が好まれるといった時代の流れに対応しました。
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「早稲田大学と小倉屋」
それから、新聞記事にある「地ビール」はこれです。商店街の振興のためガンバッテいます。コマーシャルとなりますがご容赦下さい。
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夏目漱石誕生の地 |
夏目家菩提寺 |
関口芭蕉庵 |
切支丹坂下 |
黒田学校 |
箱根山 |
穴八幡 |
放生寺 |
水稲荷 |
諏訪神社 |
玄国寺 |
早稲田大学関連 |
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「他にもいろいろ」
個人文集に書きましたように、この辺り「牛込・高田馬場・早稲田」あたりは、私の店と共に300年くらいの歴史を遡ることが出来ます。
折角、戸山高校(百数十年の歴史の?)
に学んでいるのですから、周辺を訪ねてみると面白いのではないでしょうか?
ざっと考えても、左記のようなものがあります。宜しければご覧になりませんか?
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