*都立戸山高校・1956(昭31)年卒業生の資料 画面右の×印で閉じます。   昭和31年卒のページにはここから   Count = 3009

『科学技術史ウオーキング(東京編)』として、日本の科学技術史に興味をお持ちの3H・君川さんに御案内いただき、各種の写真を撮りました。 写真の順番は逆時代順。クリックで拡大します。地図も,拡大・縮小・航空写真化など可能です。マーカーにマウスを近づけると説明を標示します。  ウオーキング横浜編もご覧下さい。

矢来能楽堂
宣教師トイスラー邸
尾崎紅葉・執筆宅
蔵前工業学園の碑説明
榊神社内の蔵前工業の碑
指紋研究発祥の碑
旧アメリカ公使館跡
立教学園発祥の碑
女子学園発祥の碑
電信創業記念の碑
幕府・運上所の碑
慶應大学発祥の碑
吉田松陰の墓石
シーボルト胸像
幕府・天文台の碑
蘭学事始の碑
小塚原回向院
杉田玄白生誕の碑
首切り地蔵
幕府・蔵前米蔵
キリシタン灯篭?
ある地点の緯度・経度は、散歩用のGPS(Sony GPS-3K等)の実測をグーグル地図と比較しました。=>『緯度・経度を知るページ』。

矢来能楽堂

1952年「矢来能楽堂」
足利時代の観阿弥・世阿弥に始まる観世流・能楽の一流派「観世喜之家=矢来観世家」の本拠地で活動の中心である。 関東大震災の後神田西小川町から当地に移転(1930年)。その後、大戦の空襲により焼失したが1952年に再建した。舞台の寸法は約、本舞台5.4m x 5.7m 橋掛かり2.1m x 6.5m。

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1933年「トイスラー邸」

1874年(明治7年)東京・築地の外国人居留地に、イギリス国教会の宣教医師H・フォールズが病院を設立したが荒廃、その後聖公会の宣教医師R・トイスラーが買取り「聖路加病院」とした。1923年の関東大震災にて病院が倒壊、1933年皇室・米国聖公会・米赤十字の寄付で再建、その際にトイスラー記念館を建てた。

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尾崎紅葉宅 

1891年「尾崎紅葉居宅跡」
尾崎紅葉は結婚し、東京・牛込区横寺町(当地)に居をかまえ、多くの文学作品を発表・弟子の養成に当った。従来からの文語でなく、口語での表記とした言文一致の文章も作品に使った。読売新聞社に入社し「伽羅枕・三人妻・二人女房」などを連載し好評を博した。日清戦争後の明治30年(1897年)「金色夜叉」の連載を開始したが病没し未完となった。

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1881年「蔵前工業学園の蹟 碑文の説明」

明治十四年(1881年)に東京職工学校が創立され、震災を契機に移転した。往年の正門付近が「榊神社境内」となったので昭和17年に碑を建てた。 戻るページトップ  地図に戻る

 

「榊神社内の蔵前工業学園の蹟」

蔵前工業学園の蹟 本石碑は、当地にあった東京高等工業学校(現東京工業大学)を記念し、工業教育発祥の地として同窓会の蔵前工業会が建立したものである。当校は工業指導者の養成を目的として明治十四年五月東京職工学校として創設され、明治二十三年三月東京工業学校、明治三十四年東京高等工業学校と改称された。当校は常に日本の工業教育の指導的地位にあり、また多くの留学生を教育するなど、科学技術の発展に貢献し、当校の出身者は「蔵前の出身」と言う愛称で重用された。
しかし、大正十二年九月の関東大震災により、校舎、工場等が灰燼に帰したため、学校当局は当地での再建を断念、目黒区大岡山に移転した。当地の敷地は、正門の位置にたてられている本石碑を中心に、隅田川に沿って面積四万三千平方メートルに及んでいた。

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1880年「指紋研究発祥の碑」

築地居留地において聖路加病院の前身「築地病院」を開設した宣教医師Hフォールズが、1874年〜1886年まで居住した場所である。氏は日本で行われていた「拇印」に注目し1880年に英国の雑誌「ネーチュア」に個人識別の手段としての指紋について投稿し、科学的指紋法に関する世界最初の論文と言われている。

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1875年「アメリカ公使館跡」

アメリカ公使館は安政6年(1859年)ハリスにより港区元麻布の善福寺に開設され、明治8年(1875年)12月に築地外国人居留地に新築した。その後明治23年(1890年)赤坂に移転した。当地には、シンボル石標が残っている。

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  1874年「立教学院発祥の碑」
立教学院は、1874年(明治7年)ウイリアムズ主教が、築地に私塾を開校、生徒数名でスタートした。1999年に創立125年を記念して碑をたてた。彫刻家・三坂制氏の作品

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  1870年「女子学院発祥の碑」
女子学院は、1870年(明治3年)J・カロゾルスにより築地居留地に設立されたキリスト教主義の女子学校です。1920年に高等科を東京女子大学に統合し、以後、質の高い中高一貫教育を、千代田区一番町で行っています。1999年に創立130周年を記念し碑をたてました。

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  1869年「電信創業記念の碑」
明治2年(1869年)、横浜裁判所内と築地運上所内「伝信機役所」を結ぶ32キロメートルの電信線架設工事がスタートし、同年12月25日に業務を開始しました。これがわが国最初の公衆通信である。

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  1867年「運上所跡」
1854年の日米和親条約により外国貿易開始。輸出入監督・税関のため「運上所」を神奈川・長崎・函館に設置。1867年築地鉄砲州にも開設(横浜運上所の一部)した。

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  1858年「慶應大学発祥の碑」
中央区築地明石町に、江戸時代に豊前国中津藩の奥平家の中屋敷があり、 大阪・適塾の塾頭であった福澤諭吉が招かれて「蘭学塾」を開設、これが慶応義塾の創設となる。福澤は、開港した横浜見物から英語の必要性を痛感し習得に努め、咸臨丸渡米に際して軍艦奉行木村摂津守の好意により従僕として同行し、帰国後蘭学塾を英学塾に転換した。

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  1857年「吉田松陰(松陰二十一回猛士)の墓石」
大老・井伊直弼による安政の大獄により、1857年に江戸・伝馬町の獄において斬首された。刑死後、小塚原回向院に葬られたが1863年に高杉晋作らの攘夷派により世田谷区若林に改葬された。現在も回向院墓地に墓石は残る。世田谷区の墓所には1882年に松陰神社が創建され、生地の山口県萩市では死後100日目に遺髪を埋めた墓所(遺髪塚)が建てられた。靖国神社にも維新殉難者として合祀されている。

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 シーボルト像 1826年「シーボルトの胸像」
シーボルトは長崎出島のオランダ商館医として1823年来日、出島内にて医師開業、出島外に「鳴滝塾」を開設し蘭学教授を行った。弟子として、高野長英などが居る。1826年にオランダ商館長と江戸に来たり徳川家斉に謁見、宿所長崎屋にて高橋景保らの学者と交流、日本地図を入手したことが発覚し、国外追放となる(シーボルト事件)。 帰国後 オランダ・ドイツにて日本学の祖として名声を得た。幕府開国にて日蘭通商条約締結、国外追放処分も無効となり再度来日、幕府顧問として働く。この地は娘「イネ」が産科医院を開業したばしょでもあり、オランダのライデン大学から寄贈の胸像を置いた。

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 幕府天文台 1782年「幕府・天文台の碑」
古来、編暦作業は朝廷の所轄であったが、江戸幕府は1684年に寺社奉行の元に「天文方」を設置し編暦作業を行った。場所は牛込・本所・神田など転々としたが、1782年浅草の「浅草天文台(嶺暦所)」が設置された。明治の王政復古に伴い、一時は土御門家が編暦の権限を取り戻したが、明治3年に文部省の天文暦道局に権限が移った。 浅草天文台に置いては、高橋景保の提案により蛮書和解御用が設置され、編暦以外にも天文・測量(伊能忠敬も学ぶ)・洋書翻訳などを行った。現代の東京大学の起源の一つである。

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  1771年「蘭学事始の碑」
中央区築地明石町に、江戸時代に豊前国中津藩の奥平家の中屋敷があり、中津藩医の前野良沢が住んでいた。ここに小浜藩医杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周らが集まり1771年から「解体新書」の翻訳を始め、約3年かかって出版した。

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  1766年「小塚原回向院」
寛文7年(1766年)本所回向院(両国)の住職「弟誉義観」が行路病死者や刑死者の供養のため開いた寺である。安政の大獄で刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎などが葬られ、明和8年(1771年)杉田玄白・中川淳庵・前野良択らが刑死者の解剖に立ち会った場所でもある。

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 杉田玄白生誕碑 1733年「杉田玄白生誕の碑」
新宿区立の矢来公園にある。当地は江戸時代に若狭・小浜藩主・酒井家の下屋敷があった場所で、福井県立歴史民俗資料館から新宿区に寄贈された。「小浜藩邸跡ー杉田玄白生誕地」の両方が刻まれている。 酒井氏は3代家光の時代に老中・大老の重職をつとめ、江戸城天守閣の炎上した明暦の大火(1657年)においては4代将軍家綱がこの邸に避難したと言われる。
後の蘭学者・杉田玄白は小浜藩医の子として当地で生まれた。

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 首切り地蔵 1651年「小塚原刑場跡の地蔵像」
慶安4年(1651年)に処刑場として創設。伝馬町牢獄などで処刑された国事犯の死体もここに埋めることとなり多くの政治犯が葬られた。1741年(寛保元年)に高さ3メートル程の首切り地蔵が建てられた。常磐線線路布設に伴い刑場跡は回向院と延命寺に分かれた。明治時代に西欧に合わせ、斬首など廃止されたが、創設から廃止までの約200年間に20万人以上の罪人がここで処刑されたと言う(延命寺内掲示板)。200

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 浅草蔵前 1621年「幕府の米倉・蔵前の解説」
江戸時代の蔵前は「浅草御蔵前片町」と呼ばれ幕府の米蔵が設置された。米は江戸時代の経済の中心であることから、元和元年(1615年)徳川幕府の天下平定宣言と同時に、米倉の設置が開始され、当地蔵前は元和6年に鳥越の丘を削り、その土砂で隅田川を河岸を整地し造成され、各地方からの年貢米を保管したという。
物量として、旗本約2900人に年間625000俵(37500トン)支給との説があり、秋の収穫後に半分とすると重量18600トンを米倉に蓄えたことになる。

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 正雪地蔵 1600年「牛込秋葉神社のキリシタン灯篭?(正雪地蔵)」
秋葉神社は、矢来町の酒井家の邸内に祭られていたが、昭和27年に新宿区に無償贈与された。神社境内に祭られる「正雪地蔵」について、豊臣秀吉の時代に、九州・豊後のキリシタン大名大友氏が秀吉の不興をかい、嫡子義乗は一時加藤清正にお預け処分となったが、その後徳川家康から、当地牛込に屋敷を与えられ、名門の末裔として召し使われた。当初は地中に隠されていた等の点から、キリシタン灯篭ではと言われている。

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