*都立戸山高校・1956(昭31)年卒業生の資料 画面右の×印で閉じます。   昭和31年卒のページにはここから Count = 501
『都立戸山高等学校・昭和31年卒業関係者』の訃報を速報します。

ご本人    : 堀内 公子さま (3年H組)
     
御逝去日・享年: 令和二(2020)年 12月 21日 ・ 82歳
葬儀・通夜  ; 家族葬にて実施済
葬儀・告別式 ; 家族葬にて実施済
 喪 主   : 中村 幸子さま (令姉)
 連絡先: 郵便番号:177-XXXX
      練馬区     -  - 
ご遺族さまより
  亡妹 堀内公子儀、かねてより腫瘍治療中のところ、12月21日、逝去致しました。 通夜・告別式はコロナ禍の折、身内にてとり行いました
ここに生前のご厚誼に深謝いたしますとともに 謹んでご通知申上げます。

なお、ご遺族様より下記のような内容の、お手紙を頂いております。
都立戸山高・クラス会様
諸事情お問合せのお手紙頂戴し、公子の戸山高時代を懐かしく想い出して居ります。
 クラス担任が高名な数学のガンマ先生であることは公子から聴いて居ります。公子はその先生の感化で、大学志望を「文科系」から「理科系」に変えたように思います、親も姉も反対したのですが、頑固に聞き入れず理科系に進学してしまいました。後日、退官してから、しみじみと進路を誤った! 女性の理科系は厳しいといっておりましたが・・・。
 都立大卒業時は、高度成長の中でしたが、女子の求人は限られており大変でした。公務員を敬遠し、会社勤めを希望し、ようやく○○合成樹脂という会社に就職出来ました、同期の大卒採用3名、東工大男子1名・群馬大男子1名と都立大の公子でした。本人がショックだったのは、当時1万数千円の初任給で男女の格差が3000円あったこと、又研究的な業務でなく、事務職的な仕事しか与えられない事でした。毎朝満員電車に揉まれて2時間の出勤、月曜から土曜日まで午前8時~午後5時の勤務など、親や姉たちの教員生活をみて育った公子にとって予想外で不満たらたらの状態で御座いました。
 そうした時に都立大の助手の誘いがかかってしまいまして、母は反対致しましたが、本人はサッサと決めて、6月末で某社に退社届けを出し、7・8月は「公子の夏休み」と称して大いに楽しみ、9月から都立大に奉職したもので御座いました。大学では有機化学を専攻したのですが、いつしか放射線化学に進んだようで、温泉放射能研究の為に温泉を訪ねる際に私共を同行させたことなど、今は懐かしく思い出されます。
 末筆ながら、皆々さまのご健勝を祈らせて戴きます。
          2021年2月8日      中村幸子
注記:堀内公子さまは、東京都立大卒・都立大助手・日本温泉学会評議員など歴任され、1980年に「ラドンおよびトロンのトルエン抽出-液体シンチレーションカウンターによる新定量法とその地球化学的応用に関する研究」により、理学博士号を取得されました。『都立戸山昭和31年卒の五人のリケジョ』として、当ホームページにて紹介させて戴きました。また新宿中村屋での会合にて『放射能と温泉』のプレゼンを御願いしたこともあり、深くふかくお悔やみ申し上げます。