ある地点の緯度・経度は、散歩用のGPS(Sony GPS-3K等)の実測をグーグル地図と比較しました。=>『 緯度・経度を知るページ』。
|
|
その1「東京・銀座四丁目・ミキモトビル」
東京の中心銀座四丁目のミキモトビルに、「養殖真珠」の発明者でミキモトの創業者・御木本幸吉の記念碑があります。1903年(明治36年)この場所に「御木本真珠店」を開設しました。主たる顧客は外国富豪でした。
戻るページトップ 地図に戻る |
|
「真珠王記念碑」
真珠王=御木本幸吉は、貴重で高価な天然真珠探索のために多量のアコヤ貝が乱獲され絶滅するのを憂い、アコヤ貝の養殖を目指し成功しました。明治日本の殖産興業政策とも合致し、1919年(大正8年)にはロンドン宝石市場に「養殖真珠」を供給するに至りました。養殖真珠はフェイクとのフランスでの訴訟も乗り越え、渋沢栄一の紹介で発明王・エジソンと会見するとか、1905年(明治38年)には明治天皇に拝謁するなど日本国に貢献した発明家として「日本の十大発明家」に数えられています。
戻るページトップ 地図に戻る |
|
その2「東京・銀座二丁目・銀座通りの街路灯」
銀座二丁目、松屋デパート筋向いに、一本だけ形の違う街路灯があります。道路の向い側は伊東屋文具商、ブルガリ宝飾店になります。これは日本最初の電気街路灯(ガス灯でない)の記念碑です。
戻るページトップ 地図に戻る |
|
「街灯柱の碑文の説明」
「明治十五年(1882年)に日本最初の電気街灯建設の地」、「昭和六十一年十月十五日建之 銀座通り商店街・照明学会・関東電気協会・東京電力株式会社」との説明があります。
戻るページトップ 地図に戻る |
|
「レリーフ・拡大」
街路灯に面するビルの壁面には、レリーフがあります。
戻るページトップ 地図に戻る |
|
「レリーフのある壁面」
レリーフのある壁面は、現在宝石店カルチェのビルです。
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
その3「京橋遺跡」
銀座から日本橋に向けて歩くと京橋を通ります、明治と大正時代の石標が残っており説明板があります。
「京橋」の名前は「東海道を京都方面に進んで最初の橋」として名付けたとされます。
戻るページトップ 地図に戻る |
|
その4「電気供給発祥の地」
中央区日本橋茅場町一丁目の「トレストイン日本橋」入口脇に電灯用電気供給発祥の地の碑があります。
碑文には
『明治20年(西暦1887年)11月25日 東京電灯会社がこの地に、我が国初の発電所を建設し、同月29日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などのお客様に電灯の供給を開始いたしました。(続く)
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
「碑文の説明続き」
これが、我が国における配電線による最初の電灯供給でありまして、その発電設備は直立汽缶と、30馬力の横置汽機を据付け、25キロワット・エジソン式直流発電機1台を運転したもので、配電方式は電圧210ボルト直流三線式でありました。
』としています。
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
その5「日本橋」
徳川時代の唄「お江戸日本橋七つ(午前四時)立ち・・行列そろえて・・・」の日本橋は現在は高速道路の下の小さな橋です。しかし鉄道・自動車の無い江戸時代に「最強の大量輸送手段」は水運ですから、この辺りは江戸有数の繁華街だったのです。
(日本財団・企画展「江戸の水運」報告書)
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
「日本国・道路元標」
家康は、江戸城と海を直接結ぶ水路「道三堀」を造り、小石川・御茶ノ水・神田・両国を結ぶ神田川相当の掘割を造る一方、道路整備も行いました。このあたりついては、清水建設殿・企画製作の資料・よみもの「江戸のまちづくり=http://www.ynp21.jp/edo/がお勧めです。海岸埋め立てにより「東海道」を品川経由で海沿いに江戸の町に入り今の銀座・京橋を通り道三堀につながる平川(現在の日本橋川)に達するようにしました。そしてここに大きな橋がかけられ「日本橋」と命名し、江戸の五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)の起点、としました。文字通り、江戸幕府が日本の交通ネットワークを管理することを宣言した命名です。
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
「復元:東京市道路元標」
戦前は、各市町村に道路の始点となる道路元標を義務付けたため、東京市は江戸の歴史にならい日本橋に道路元標を置きました。現在その復刻が残され、東日本方面の里程標(千葉・宇都宮・水戸・新潟・仙台・青森・札幌) と 西日本方面の里程標(横浜・甲府・名古屋・京都・大阪・下関・鹿児島)があります。
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
「江戸時代の魚市場記念碑」
橋の袂には、江戸時代からの繁栄を偲ばせる魚市場の記念碑と乙姫様の記念像がありました。
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
その6「按針通り」
日本橋近くの室町1丁目の三浦按針(=徳川家康に仕えた、英国人ウイリアム・アダムス)の居宅あとには「按針通り」の地名と記念碑が残っています。
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
「記念碑・拡大」
。
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
その7「シーボルトの宿舎・長崎屋跡」
江戸時代にオランダ商館長が将軍に謁見のため江戸に来た時の宿所が、薬種問屋・長崎屋であり、同時に蘭学を学ぶ学者の交流の場でもありました。高橋景保、シーボルト事件の舞台ともなりました。
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
「長崎屋・表示板」
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
その8「東京電力・テプコ浅草館」
旧東京電力浅草営業所が「テプコ浅草館」として資料展示に利用され、東京電灯浅草発電所、
ドイツ・アルゲマイネ社製の発電機、初めてエレベーターを設置した浅草十二階、などの資料を展示しています。
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
その9「浅草・凌雲閣=十二階」
日本最初の電気式エレベータが有った展望台の凌雲閣(次は東京タワー、そしてスカイツリー)。現在その跡地は、射幸場になっていますが、記念の説明があります。
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
その10「平賀源内のエレキテル実験跡」
平賀源内のエレキテルは、隅田川河畔の清洲町で行われました。
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
「平賀源内のエレキテル実験跡」
現在その場所は、読売新聞社の事業所になっています。
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
その11「清洲橋」
散策の最後に清洲橋を通って帰りました。
戻るページトップ 地図に戻る
|
|
「東京のスカイツリー」
清洲橋からスカイツリーが、丁度見えました。
戻るページトップ 地図に戻る
|