2018年「3Hランチ会」を2018年6月08日に行いました。
次回は2019年6月7日(金)12:00~15:00
予約済です。
前回世話役 広瀬 彰から==>「近況報告なし、集合写真なし、返信集なし」でランチ会を開催しました。皆さまどうぞ御参加を!
実施報告
日 時:平成30年6月08日(金)
時 刻:12:00~15:00
会 場:新宿中村屋8階:レストラン・グランナ(半個室)
参加者 :尾崎、亀田、高橋(棟)、比田、永野、村上(章)、村上(保)、広瀬
重要事項
G組参加人数の事情で今年10月12日(金)の平成最後のやあやあ会「やあやあ会2018」をH組がG組と共催することとなった。7月末に案内往復ハガキを、城北会の宛名ラベルで200枚程度投函・150枚程度の返信を8月末に集約し返信集を印刷の予想。このあたりは城北会にサポート頂けるが、その他の当日の受付や司会進行が問題。出来れば、やあやあ会には疎遠であった級友にもご助力をお願いする必要と思われる。
7月末の案内往復はがき投函時は旧友に、声掛けするチャンス。可能な者が城北会に参集し「友人あて勧誘メモ」を追記することとしたらどうか。
特別の話題
F組の小堀鴎一郎さんの著書・死を生きたひとびとやテレビ出演が話題と成った。
尾崎さんからの追加情報として2016年にNHKの玉谷邦博(s38戸山卒)氏がラジオ深夜便「明日えの言葉」で紹介。また城北会千葉支部の会誌にも<先輩インタビュー:心に響く医の道をもとめて>が掲載されており、小堀さんが成城学園中学から戸山高校に進学するについて、柴田治先生が助言されたなどの秘話がある。
その他の話題
最近のE組井田さんの投稿「戸山高と私」が圧巻である。素晴らしい記憶力に敬服し、過去を思い出す。それにしても「英語のブル」さんは怖かった、入学最初の授業で「何を勉強するのかね?」と急に質問され、答えに迷うと「立っていなさい!」結局クラスの大半が最初の授業で立たされ、一種の恐怖政治的に「厳しく鍛えられた」と思う。結局ブルさんは、53年間(1923-1976)80歳まで戸山で頑張った。
それと比較して「柴田・ガンマ」は厳しかったが恐怖では無かったと思う、洒脱な江戸っ子的お人柄?とも思える。ガンマは64歳で戸山を自主退職(1925-1961)、乞われて私立高校で84歳まで進学指導を続け、88歳で逝去、日経・読売・朝日の3つの新聞に訃報が出た(合掌)。
井田さんの記事では、女子体育・保健の和田先生(オバチャン)が日教組婦人部長。数学の武藤先生が日教組の青年部長ではと書かれている。
他方、尾崎さん所有の「昭和43年卒が纏めた『卒業50年記念誌』」では、43年卒が30年以上にわたり「囲む会」を続け敬愛している山極圭司先生(国語・ラグビー部顧問)のお話として、「1965年の4月に、国語の米田・野本の両先生が、「日中友好のため戸山を退職し中国に渡る」と離任の挨拶をした」とある。両氏は後日、日本と中国共産党の関係悪化にともない帰国し、政党機関紙で働いたとのことである。思想信条に献身、政党機関紙の拡販に努める先生方の時代だったのかも知れません。往時の先生方と新聞部のインタビューが「復刻先生列伝」として城北会ホームページに掲載されています。
F組の大貫良夫先生編で「アンデス古代の探求 - 日本人研究者が行く最前線」が5月に出版されたとのこと、亀田氏紹介の最新ニュースです。
最近話題の戸山生として、関西学院大学アメフト部の「小野宏ディレクター」があります。試合中の傷害事件?の記者会見に監督と共に登場し、好印象を残しました。1979年戸山卒、早稲田の理工を蹴って?アメフトの為関西学院理学部入学、1984年卒業し朝日新聞社運動部記者となり、更に退職して関西学院大学アメフト部のため専心とのことです。戸山のアメフトについて投稿しておられます。
戸山のアメフト(その前身のタッチフットから)に尽力された伊原先生(イカぽん)は、1988年に戸山退職(60歳)ですから、小野宏さんは教え子かも、お二人に接触が有ったか尋ねてみたいですね。 ひたむきな軍国少年だった伊原先生と立山の雪崩で他界された伊原菜穂子お嬢さん(ポン子さん)の 遺稿がホームページにリンクしてあります。
参考:都立戸山高校アメリカンフットボール部50年史~われらが歩んだ半世紀~
高校時代の運動部活動について、井田さんのご意見として:
「私は戸山高校でバレーボール部の多くの良き先輩を通じリ一ダーシップや責任感を 学び鍛えられ、体力に自信を持つことができた。 今日あるのは、バレーボールを縁として鍛えていただいた先輩や支えてくれた同期・後輩 に感謝する。」とあり、更に:
「現在の高校生とOBが馴染まなくなったのも、在校生と先輩をつなぐ先生方が人事異動で同一高校に勤務できな くなった人事制度によるものと思われてならない。 確かに教師育成の観点からすればいろいろな学校を体験させることが必要であることも 理解でき、学校が教師のためにあり、在校生と卒業生の絆のためにあることではないこと は一つの意見であり、いたしかたがない。」とのことです。
尾崎さんから、少子高齢化・人口減少社会など、騒がしい時代に千葉城北会で「街の産婦人科医の危惧する生命(いのち)と少子化問題」の講演を行いました、との紹介がありました。
級友消息:木村裕子さん、木村佐知子さん、堀内公子さん、丸尾典正さんから元気との連絡がありました。
などなど、気軽なランチと雑談を楽しみました。皆さま是非、次回ご参加下さい。
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7月末の案内往復はがき投函時は旧友に、声掛けするチャンス。可能な者が城北会に参集し「友人あて勧誘メモ」を追記することとしたらどうか。
尾崎さんからの追加情報として2016年にNHKの玉谷邦博(s38戸山卒)氏がラジオ深夜便「明日えの言葉」で紹介。また城北会千葉支部の会誌にも<先輩インタビュー:心に響く医の道をもとめて>が掲載されており、小堀さんが成城学園中学から戸山高校に進学するについて、柴田治先生が助言されたなどの秘話がある。
他方、尾崎さん所有の「昭和43年卒が纏めた『卒業50年記念誌』」では、43年卒が30年以上にわたり「囲む会」を続け敬愛している山極圭司先生(国語・ラグビー部顧問)のお話として、「1965年の4月に、国語の米田・野本の両先生が、「日中友好のため戸山を退職し中国に渡る」と離任の挨拶をした」とある。両氏は後日、日本と中国共産党の関係悪化にともない帰国し、政党機関紙で働いたとのことである。思想信条に献身、政党機関紙の拡販に努める先生方の時代だったのかも知れません。往時の先生方と新聞部のインタビューが「復刻先生列伝」として城北会ホームページに掲載されています。
戸山のアメフト(その前身のタッチフットから)に尽力された伊原先生(イカぽん)は、1988年に戸山退職(60歳)ですから、小野宏さんは教え子かも、お二人に接触が有ったか尋ねてみたいですね。
「私は戸山高校でバレーボール部の多くの良き先輩を通じリ一ダーシップや責任感を 学び鍛えられ、体力に自信を持つことができた。 今日あるのは、バレーボールを縁として鍛えていただいた先輩や支えてくれた同期・後輩 に感謝する。」とあり、更に:
「現在の高校生とOBが馴染まなくなったのも、在校生と先輩をつなぐ先生方が人事異動で同一高校に勤務できな くなった人事制度によるものと思われてならない。 確かに教師育成の観点からすればいろいろな学校を体験させることが必要であることも 理解でき、学校が教師のためにあり、在校生と卒業生の絆のためにあることではないこと は一つの意見であり、いたしかたがない。」とのことです。